美術館で魚を捌きたくなった話

出張でアムステルダムに行った際、出張恒例の「ランチタイム美術館飛込トライアル」を実施した。昼前後のミーティングを美術館圏内に設定するスキルは年々増加している。

 

アムステルダム国立美術館は比較的コンパクトとはいえ1時間で全部をじっくり鑑賞する余裕などない。目ぼしい作品を1つ2つ選んでたっぷり時間を使い、あとは心を鬼にしてチラ見をカマしつつ脱兎のごとく歩を進めるのがいつものやり口だ。後ろ髪を引かれる思いは捨てきれないが、心の中の環境大臣が「今回ワタナベは全部は見れないと思います。だからこそ、今回ワタナベは全部見れないと思っている」と眼光鋭く言い放ってくれるので幾ばくかの安心感がある。

 

その中で今回、予定外に心を引っ張られた作品があった。一つは以下の風景画。1671年に描かれたアムステルダムの街並みだ。1671年といえば日本は江戸前期、水戸黄門常陸水戸藩主としてブイブイ言わせていた時代のことである。

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左上の指影は音を出すまいという努力の痕跡

 

そして以下が美術館を出たあと僕が写真に収めた現在のアムステルダム

 

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似た風景を探した訳ではない

 

ね、舞台装置がほとんど変わっていないの。それが思わず目を留めた一義的な理由。両者の比較から様々な考察を伸ばすことができるが自分が注目したのは、今も昔も、オランダ人も日本人も、押し並べて同じ対象を美しいと感じることができる人間としての「普遍性」だった。

もう1枚惹かれた絵画があったので紹介したい。同じく1671年の作品だ。

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一つ鳥好きから補足させてもらうと、ここに描かれている鳥は全て今日の地球上でも観察することができる。要するにこの絵画を見た瞬間、21世紀を生きるバードウォッチャーワタナベは突如として17世紀を生きるオランダ人画家と心が通じ合った錯覚に陥ったのだった。おお、フラミンゴの可憐さと狂気の混合具合堪らないよねと。おお、ミコアイサのパンダちゃん具合最高だよねと。

 

ギリシャ哲学を紐解いて先人の教えに触れるとき、時代遅れだなあ、なんて思わない。むしろ現代人は、2000年以上前の思想から、今なお感銘を受けることができる。そう思うと人間て、心の面はそんなに進化していないんじゃないのかな。」

最近上司がこう呟いた。なるほど技術の発展によって寿命が伸び、より健康で安全な生活は勝ち得ているかもしれないが、確かに根っこの心は長らく変わず在り続けていそうだ。世界の注目を集めるために21世紀生まれの少女がスピーチをすることは意味があることかもしれないが、人の心を揺するという目的だけを見据えるならば、ソクラテス孔子世阿弥の言葉を引用するだけでも十分代替可能なように思える。

 

真新しい体験の発明と、普遍的な美しさの再発見、どちらも同様に価値があるはずだ。じゃあどちらか一方選べと言われれば、なんとなく自分は後者を追求したいかなあ、ユーチューバーで言えば魚捌く系かなあ、などと想像する早足のアムステルダムだった。