陰謀論的な話は受け入れられるけど、陰謀論的な話をする人は受け入れられないという話

覡修行者/シャーマンとして活動を始めてしばらく経つ。言葉で説明のつかない活動を自分自身が営んでいることは百も承知の上、同様の活動・言動をする人に対しては懐疑的・一定の距離を保ちたいという気持ちがある。その天邪鬼さ、バランスを周囲には面白がってもらえるので備忘録も兼ねて主観的景色を残しておく。

 

そもそもこの世界に足を踏み入れた経緯

 

自分が見えない力の世界、通称”不思議ちゃん道”に入ったきっかけは大きく2つある。

 

1. 今の巫女師匠に「あなたはウチで修行しなさい」と言われた

知り合いからの紹介で、今も師事する巫女師匠に会いに行った。すると初対面で「あなたはウチで修行しなさい」と率直な招待。霊感も何も持ち合わせていない自分からすると人違いでは・・・?という気持ちでいっぱいだったが、食わず嫌いもなんだかなと思うに至り半年のお試し修行を開始。半年でキッパリ足を洗うつもりだった。不思議な体験だったなーで終わらせるつもりだった。

 

2. できるようになってしまった

ところがもうすぐ半年経つというタイミングで、なんだか色々できるようになってしまった。不眠に悩む友人からの相談に対して、何ができるかわからんけどちょっと御祈祷してみるわーとやってみるとパタっと問題が解消されたり、行ったことない部屋の間取りが透けて見えたり、会ったこともない人の家族関係が察知できたりと、自分でも説明できない不思議なことが再現性高くできるようになってしまった。なんかこれは人の役に立つ形で活用せなあかん気がするという機運が高まった。

 

というわけで、まあ人の役に立つならいいかーという感じで不思議な活動が始まった。集客など一切していないけどいまだにご相談者が絶えないのは、一定のニーズの表れと、そのニーズに一定お応えできていることの表れなのかなと思う。

 

踏み入れてみて分かる、この世界の人たち

 

不思議ちゃん道に入ると、当然ながらそこには不思議ちゃんが多く生息していた。私霊感あるんですとか、何言ってるかよく分からんスピリチュアルな人とかが一定数いることが分かった。自分はそう言う人に接すると決まっていつも「うわ怪し、近寄らんとこ」と思ってやり過ごしている。自分でご祈祷だなんだやっておいて、つくづく矛盾に満ちた姿勢だ。

 

一応神道の修行に打ち込む人間として、不思議ちゃん道だけでなく表の知識も持っておこうと片っ端から書籍等で勉強もしている。すると一定の割合で陰謀論的な主張に出会う。例えば日ユ同祖論とか。個人的にはその主張自体を否定はしないし、むしろ満更でもないんじゃないぐらいに思っている。しかし、それを語る人は不思議と受け入れ難い。一言で言えば胡散臭い。論理の立脚方法が稚拙だったり、どこまで行っても帰納的に主張の裏付け要素を積み重ねるだけだったり、なんというか主張に凄みがない。結論は受け入れるけど、それを発する貴方はちょっといただけない、そんな至極勝手な気持ち。結局何を言うかより誰が言うかが大事だよねと思うに至る一幕。ここに、タイトルにもある「陰謀論的な話は受け入れられるけど、陰謀論的な話をする人は受け入れられない」姿勢が浮き上がってくる。

 

もちろん例外もある。事実、本物的な人との出会いはある。信じる・信じない以前に、目の前で事実として突きつけられたら受け入れざるを得ないような体験がある。誠実な人から飛び出す陰謀論的話題はいささか信頼を寄せれる。「”私霊感あるんです”とかズケズケ言ってくるスピ系の人とか本当しょうもない」とバッサリ断罪する師匠を見てると最高だなとなる。「冷静に考えて私たちのやってること頭おかしいですからね」と滝行帰りの電車の中で真顔で語る師匠に一生ついていきます!という気持ちになる。

陰謀論的な話を受け入れさせる器を持つ人間は稀有だが存在する。その力を世のために使うなら、別に説明不可だろうがなんだろうが構わないと思う。

 

これから思慮を深めること

 

日本の神話では、混沌から最初の神が生まれ、そこから次々と神が誕生し、天皇家の血筋に至る流れが記されている。個人的にこの物語そのものは日ユ同祖論と同様受け入れている。

しかし同時に進化論的な観点として、我々の祖先は魚でありアメーバだったというストーリーがある。不思議なことにこれも全くもって受け入れている。

 

一方は神から始まり人に至って今の我々があるという話。もう一方は人でも神でもない原始生命体としての祖先の存在を思い起こさせる話。一見して両者は矛盾する。しかし、なぜだか自分の中で両者に矛盾はない。共に受け入れられる話であり、いずれかが棄却されるわけでもない。

 

理由はまだうまく説明できない。一方は精神世界の記述であり、もう一方は物質世界の記述であるという整理ができるかもしれないが、それだけでは不十分だと魂が言っている。ここに仏教聖典の有名な一節を思い出す。

 

昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。

象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

 

神話的な整理も、進化論的な整理も、真理を別の角度から捉えようとしているのだろう。

そういう冷静さをもって、明日も一心不乱に、誠心誠意、祈り倒します。