足の裏に臨場感を

先週末、イスラエルでは雨が降った。一年のほとんどを快晴下で過ごせるこの国にとっては珍しく、雨季の終わりを伝えるかのように、全土にわたって雫を落とした。

 

ちょうど一カ月前、会社から日本帰任の辞令を受け取ったとき、最後の期間は休みを取ってもう一度この国を見て周ろうと決めた。発令から帰任まで1カ月という短期間だったこともあり、引っ越し準備・引継ぎ・その他諸々を前半3週間に詰め込み、最後の1週間を丸々空けた。

 

時を同じくしてコロナウイルスの脅威が劇的に広がり、イスラエルでも日毎に規制が強まっていった。リモートワークの奨励に始まり、10人以上の集まり禁止、3人以上の集まり禁止、自宅から半径100m以上の外出禁止といった具合に状況は刻一刻と深刻さを増した。

 

帰国の辞令を妻に伝えた瞬間、彼女の行動は早かった。現実を受け入れることに努力を要し、ぼーっと宙を見る僕をよそに、テキパキと引っ越し準備に取り掛かり、現地の友達へ連絡して最後のパーティーを企画した。

 

僕らはある意味ラッキーだった。自宅でパーティーを開催した翌日から10人以上の集いが禁止され、僕が国中に車を転がし終わった翌日から外出禁止となった。規制が僕らの餞を待ってくれたかのようにさえ思えた。

 

僕が「国を見て周る」と言ったとき、それはすなわち自然の中に身を投じる、更に言えば鳥を探しに行くことと同義になる。3月のイスラエルはこれでもかと渡り鳥が訪れる、バードウォッチャーにとっての理想郷だ。妻が一足先に帰国したこともあり、何もない砂漠の真ん中で数時間静かに鳥を待って過ごすという退屈な時間(僕にとっては贅沢な時間)に付き合ってもらわなくて済む。

 

最後の雨がもたらした水分はまだ各地で残っており、運動靴の底からその名残が鮮明に伝わってきた。荒野の細かな砂が水分を含むとその泥は驚くほどの粘着性を持ち、靴が汚れるという次元からも一線を画す。一歩踏み出すと靴底の凹凸を1ミリの隙もなく埋めるだけでなく、数多の仲間を引き連れてくる。26.0cmで着地した僕の足が、30cm以上の楕円板となって宙に帰ってくる。振れど拭き落とせど次の一歩でまた同じ出来事が繰り返されるのでいつしか面倒見を諦め、気付いたころには雪だるま式に増えた泥が靴の原型を失わせている。

 

この一週間、沢山の土を踏み、その一つ一つが足の裏に鮮明な感覚として残っている。泥だけではない。踏み込むたび緩やかに沈み込む砂利道はその石石の下に地下水の存在を確かに感じられたし、歩みと共に足元からバッタが飛び出す草原では両足の下から生命の芽吹きが伝わってきた。夢中になって歩いてふと振り返ると、僕の足跡型に花畑が凹んでいる様子に気付いた時はごめんなさいと呟きながら急いで自分の足跡を辿ってもと来た道を戻った。コンクリートを離れ、道なき道を行くと、足裏には想像を絶する多様性が広がっていた。

 

思えば2年間のイスラエル赴任期間中、この国以外でも様々に地面を踏んだ。ハンガリーの石畳、エジプトの砂漠、オランダの自転車道、ヨルダンの透き通った紅海、イギリスの濡れた歩道、ドイツの寒くも温かいクリスマスマーケットの小道、ボツワナの大地、ジョージアの新緑、ジンバブエの広大な滝。まだ書ききれない思い出が足の裏の感覚とともに残っている。

 

物理的行為に限らず、仕事でも多くの場数を踏んだ。ときに笑い、ときに緊張しながら、沢山チャレンジし、沢山失敗し、沢山学んだ。イスラエル生活にある意味清々しくピリオドを打てる大きな理由の一つは、数えきれない失敗を生み出せたことのように思う。チャレンジし、失敗することの意味を、イスラエル人とこの国の文化が教えてくれた。失敗を恐れず将来の成功への必要プロセスだと捉える価値観を、この国の人たちから全身に享受した。思い返せば恥ずかしいことばかりだが、どれも大切な学びとして、心の中の足の裏にしっかりと感覚が刻まれている。

 

これから、あるときは軽快な、またあるときは険しい道のりを進むことになるだろうが、いつも足の裏の感覚を研ぎ澄ませながら、一歩一歩経験として消化してきたい。これからも臨場感のある人生を。