陰謀論的な話は受け入れられるけど、陰謀論的な話をする人は受け入れられないという話

覡修行者/シャーマンとして活動を始めてしばらく経つ。言葉で説明のつかない活動を自分自身が営んでいることは百も承知の上、同様の活動・言動をする人に対しては懐疑的・一定の距離を保ちたいという気持ちがある。その天邪鬼さ、バランスを周囲には面白がってもらえるので備忘録も兼ねて主観的景色を残しておく。

 

そもそもこの世界に足を踏み入れた経緯

 

自分が見えない力の世界、通称”不思議ちゃん道”に入ったきっかけは大きく2つある。

 

1. 今の巫女師匠に「あなたはウチで修行しなさい」と言われた

知り合いからの紹介で、今も師事する巫女師匠に会いに行った。すると初対面で「あなたはウチで修行しなさい」と率直な招待。霊感も何も持ち合わせていない自分からすると人違いでは・・・?という気持ちでいっぱいだったが、食わず嫌いもなんだかなと思うに至り半年のお試し修行を開始。半年でキッパリ足を洗うつもりだった。不思議な体験だったなーで終わらせるつもりだった。

 

2. できるようになってしまった

ところがもうすぐ半年経つというタイミングで、なんだか色々できるようになってしまった。不眠に悩む友人からの相談に対して、何ができるかわからんけどちょっと御祈祷してみるわーとやってみるとパタっと問題が解消されたり、行ったことない部屋の間取りが透けて見えたり、会ったこともない人の家族関係が察知できたりと、自分でも説明できない不思議なことが再現性高くできるようになってしまった。なんかこれは人の役に立つ形で活用せなあかん気がするという機運が高まった。

 

というわけで、まあ人の役に立つならいいかーという感じで不思議な活動が始まった。集客など一切していないけどいまだにご相談者が絶えないのは、一定のニーズの表れと、そのニーズに一定お応えできていることの表れなのかなと思う。

 

踏み入れてみて分かる、この世界の人たち

 

不思議ちゃん道に入ると、当然ながらそこには不思議ちゃんが多く生息していた。私霊感あるんですとか、何言ってるかよく分からんスピリチュアルな人とかが一定数いることが分かった。自分はそう言う人に接すると決まっていつも「うわ怪し、近寄らんとこ」と思ってやり過ごしている。自分でご祈祷だなんだやっておいて、つくづく矛盾に満ちた姿勢だ。

 

一応神道の修行に打ち込む人間として、不思議ちゃん道だけでなく表の知識も持っておこうと片っ端から書籍等で勉強もしている。すると一定の割合で陰謀論的な主張に出会う。例えば日ユ同祖論とか。個人的にはその主張自体を否定はしないし、むしろ満更でもないんじゃないぐらいに思っている。しかし、それを語る人は不思議と受け入れ難い。一言で言えば胡散臭い。論理の立脚方法が稚拙だったり、どこまで行っても帰納的に主張の裏付け要素を積み重ねるだけだったり、なんというか主張に凄みがない。結論は受け入れるけど、それを発する貴方はちょっといただけない、そんな至極勝手な気持ち。結局何を言うかより誰が言うかが大事だよねと思うに至る一幕。ここに、タイトルにもある「陰謀論的な話は受け入れられるけど、陰謀論的な話をする人は受け入れられない」姿勢が浮き上がってくる。

 

もちろん例外もある。事実、本物的な人との出会いはある。信じる・信じない以前に、目の前で事実として突きつけられたら受け入れざるを得ないような体験がある。誠実な人から飛び出す陰謀論的話題はいささか信頼を寄せれる。「”私霊感あるんです”とかズケズケ言ってくるスピ系の人とか本当しょうもない」とバッサリ断罪する師匠を見てると最高だなとなる。「冷静に考えて私たちのやってること頭おかしいですからね」と滝行帰りの電車の中で真顔で語る師匠に一生ついていきます!という気持ちになる。

陰謀論的な話を受け入れさせる器を持つ人間は稀有だが存在する。その力を世のために使うなら、別に説明不可だろうがなんだろうが構わないと思う。

 

これから思慮を深めること

 

日本の神話では、混沌から最初の神が生まれ、そこから次々と神が誕生し、天皇家の血筋に至る流れが記されている。個人的にこの物語そのものは日ユ同祖論と同様受け入れている。

しかし同時に進化論的な観点として、我々の祖先は魚でありアメーバだったというストーリーがある。不思議なことにこれも全くもって受け入れている。

 

一方は神から始まり人に至って今の我々があるという話。もう一方は人でも神でもない原始生命体としての祖先の存在を思い起こさせる話。一見して両者は矛盾する。しかし、なぜだか自分の中で両者に矛盾はない。共に受け入れられる話であり、いずれかが棄却されるわけでもない。

 

理由はまだうまく説明できない。一方は精神世界の記述であり、もう一方は物質世界の記述であるという整理ができるかもしれないが、それだけでは不十分だと魂が言っている。ここに仏教聖典の有名な一節を思い出す。

 

昔、ひとりの王があって、象を見たことのない人を集め、目かくしして象に触れさせて、象とはどんなものであるかを、めいめいに言わせた。

象の牙に触れた者は、象は大きな人参のようなものであるといい、耳に触れた者は、扇のようなものであるといい、鼻に触れた者は、杵のようなものであるといい、足に触れた者は、臼のようなものであるといい、尾に触れた者は、縄のようなものであると答えた。ひとりとして象そのものをとらえ得た者はなかった。

人を見るのもこれと同じで、人の一部分に触れることができても、その本性である仏性を言い当てることは容易ではない。

 

神話的な整理も、進化論的な整理も、真理を別の角度から捉えようとしているのだろう。

そういう冷静さをもって、明日も一心不乱に、誠心誠意、祈り倒します。

全集中 森の呼吸

日本に戻り2年が経った。すなわちこのブログの更新も2年ぶりという寸法だ。2年経ったということは当時オギャーと生まれた子供が2歳になるということであり、地球が太陽の周りを猛烈に2周するということであり、放ったらかしにした髪の毛は24cmほど伸びるわけで、それはもう気の遠くなるような歳月である。え、2年で髪が30cm伸びたって?おめでとう貴方には見事スケベの称号を差し上げます。

 

かくいう僕は別に2年間鼻をほじり続けたからこの場に現れなかったわけでないことは、僕の両鼻が血をブーっと吹き出すことなく健在であることからも明らかだ。若干人格を別にしながらも別の場で筆を取り続けていた。

 

ワタナベシン|note

 

↑こういう個人事業の集客的側面を孕んだ場で自己表現をどこまでするかという課題は今なお難しさを感じているところで、正直筆を取らせる人格の落とし所を探索し続けている最中だ。いっそのことどんな読者も想定せずこのブログのように駄文を吐き出し切るという試みに振り切っても良いかもしれない。頑張れワタナベ頑張れ!!俺は今までよくやってきた!!俺はできる奴だ!!と言い聞かせる炭兄を心に飼いたい。

 

そうこうする内に「書きたいものを書きたい自分」が魔封印の呪縛を解き放たんと臨界点へ達し、ピッコロの入った炊飯ジャーをパカ-するピラフ一味よろしく健気にひょっこり現れた。気付いたときにはPCを開き、ブログなんてもう書けなくなってしまったのではないかという疑念が見え隠れする中勢いに任せてキーボードを叩くと「あーーーこれこれーーー2年越しにもちゃんと流れ出てくるやんーーー」と思わず漏れ出るぐらいに指先はワタナベテイストを覚えている。執筆の呼吸 壱の型 悪筆乱文は幸か不幸か髄まで染み付いている。

 

それで2年経って三十路にもなったこの金髪は今ごろ何を書こうというのか。

鳥だ。森だ。

ゾロが隻眼になりサンジのぐるぐるが反対になった2年で、
ワタナベは金髪になり子どもが生まれた



世はゴールデンウィーク。我は妻の実家に帰省。妻の実家は山野の奥。広大な裏山に野鳥。

この数日は脱兎のごとく山の中を駆け回った。不思議の国のアリスで序盤の重要な配役を任せるべきはワタナベか白兎かで世論が五分に割れるほどの足の運びだった。身体中に引っ掛けた蜘蛛の巣は集めて整えれば上品なセーターを一着こさえれるほどの量に積み上がり、耳元で囁くハチのブーン音はもはや単なる時報となった。1時間ではなく1分を教えてくれる幾分忙しない報だったが。

 

というわけで帰省初日から小鳥のさえずりだけを北極星のように見据えエッサホイサと野山をかき分け道無き道を行く生活がスタートした。並行世界に住む僕達の一人ぐらいはディスカバリーチャンネルでカメラマンとして働いていてもおかしくない。久しぶりにこのブログを立ち上げて過去の投稿を見たらやれ鳥だの自然だの垂れ流してたので僕の本質はやっぱりここにあるようだ。

 

liquorshopshin.hatenadiary.jp

 

それで実際どんな環境に分け入っているのか。こういう場所だ。

枯木にスマホを据えていそいそと自撮りに励んだ姿勢は讃えられたい

 

センターオブなんの変哲も無い雑木林。片手にバズーカ。ここで55分待ち、5分シャッターを切る。それをいついつまでも繰り返す。ほとんどは僕一人が無数の植物と虫に囲まれているばかりの時間が流れる。待てど暮らせど小鳥一つ鳴きやしない。この自然との共存に慈しみを抱けないようでは柱までの道のりはまだ長い。

 

そしてフィーバータイムは不意に訪れる。突然目の前でオオルリが見事に囀り始め、すぐ隣で2羽のキビタキが縄張り争いをし始め、無数のカラ類が360度を覆う。二兎を追うどころか追うべきターゲットは十兎にも及び、しかしバズーカの向け先は一つしか選べないために瞬時の意思決定に迫られる。冷静さが求められる。パニクったら機を逃す。絶対にテンパるな俺。あれ、冒頭で自らを兎に例えたのに今度は被写体となる野鳥を兎で例えっちゃってるな?冷静になれ俺。でも例え被りはつまらなくないか?落ち着け俺。うわああああああああああ。

オオルリでも眺めて落ち着こう

 

そんなシビアな環境に幾度となく直面して至った境地がある。

どうやら、森にも呼吸らしきものがある。

 

別名を流れとも呼ぶかもしれない。日本代表戦で実況の松木さんが「う~ん流れよくないですよ~」というアレ。鷲津と麻雀中のアカギが決して見逃さないソレ。森にも流れがある。それが呼吸をするように、押しては引いてを繰り返している。

 

初めは小さな予兆から。遠くに声が聞こえたり、不意に一羽の鳥が舞い込んできたり。しかし気付けば次の瞬間、フィーバータイムはすでに始まっており、あっという間に過ぎ去っている。その間およそ数分。この数分のために、次の数十分をじっと待つ。

 

追ってはいけない。追っても逃げられるだけ。こちらがどっしり構えて、向こうがやってくるのを待つ。去る者を追うモテない男ムーブをするのはモテない者だけなのであってモテない男ムーブをしないことこそがモテることに繋がるのだとかの小泉氏も言う。自分の居場所を見定めたら、じっと機を待つ。あとは森の呼吸に身を委ねる。焦らず予兆を待つ。機がきたら一瞬のためらいも挟まずチャンスを掴み切る。これの繰り返し。

 

森の呼吸は個対個の関係でも垣間見える。

 

ある鳥が発見されたとする。そいつは定位置に居座り懸命に囀っている。僕の位置からは画角に捉え難い。移動を迫られる。無理に近づいたり不自然に動いたりすると逃げられてしまう。気配を消し、鳥から目線を外し、意識も鳥から外し、でも耳は鳴き声にそばだてながらそっと山の斜面を歩く。いくばくか歩いたところで第六感的な何かがピンと脳みそを小突く。ようやく鳥の方を見上げてみると、ここしかないという絶妙なポイントに自分がいることに気付く。草木が生い茂る中、奇跡とも思えるほど僕の目と鳥との間にだけ一切の障害物がない絶妙な位置関係。小人モーゼがささやかに新緑を割ってくれましたと言わんばかりの好機。

小鳥と僕との数十メートルを遮るものは何もない

 

呼吸が整う場所がある。それがベスポジとベストタイミングを教えてくれる。キタローの髪がピーンと立つみたいな感覚を森の呼吸が届けてくれる。全集中の境地がある。何かと便利な機能なのでゴールデンウィーク後の僕にもぜひ引き継いでみたい。どれだけ日常生活に使えるかしんけど。

 

鬼を倒せるようになる日も近い。

足の裏に臨場感を

先週末、イスラエルでは雨が降った。一年のほとんどを快晴下で過ごせるこの国にとっては珍しく、雨季の終わりを伝えるかのように、全土にわたって雫を落とした。

 

ちょうど一カ月前、会社から日本帰任の辞令を受け取ったとき、最後の期間は休みを取ってもう一度この国を見て周ろうと決めた。発令から帰任まで1カ月という短期間だったこともあり、引っ越し準備・引継ぎ・その他諸々を前半3週間に詰め込み、最後の1週間を丸々空けた。

 

時を同じくしてコロナウイルスの脅威が劇的に広がり、イスラエルでも日毎に規制が強まっていった。リモートワークの奨励に始まり、10人以上の集まり禁止、3人以上の集まり禁止、自宅から半径100m以上の外出禁止といった具合に状況は刻一刻と深刻さを増した。

 

帰国の辞令を妻に伝えた瞬間、彼女の行動は早かった。現実を受け入れることに努力を要し、ぼーっと宙を見る僕をよそに、テキパキと引っ越し準備に取り掛かり、現地の友達へ連絡して最後のパーティーを企画した。

 

僕らはある意味ラッキーだった。自宅でパーティーを開催した翌日から10人以上の集いが禁止され、僕が国中に車を転がし終わった翌日から外出禁止となった。規制が僕らの餞を待ってくれたかのようにさえ思えた。

 

僕が「国を見て周る」と言ったとき、それはすなわち自然の中に身を投じる、更に言えば鳥を探しに行くことと同義になる。3月のイスラエルはこれでもかと渡り鳥が訪れる、バードウォッチャーにとっての理想郷だ。妻が一足先に帰国したこともあり、何もない砂漠の真ん中で数時間静かに鳥を待って過ごすという退屈な時間(僕にとっては贅沢な時間)に付き合ってもらわなくて済む。

 

最後の雨がもたらした水分はまだ各地で残っており、運動靴の底からその名残が鮮明に伝わってきた。荒野の細かな砂が水分を含むとその泥は驚くほどの粘着性を持ち、靴が汚れるという次元からも一線を画す。一歩踏み出すと靴底の凹凸を1ミリの隙もなく埋めるだけでなく、数多の仲間を引き連れてくる。26.0cmで着地した僕の足が、30cm以上の楕円板となって宙に帰ってくる。振れど拭き落とせど次の一歩でまた同じ出来事が繰り返されるのでいつしか面倒見を諦め、気付いたころには雪だるま式に増えた泥が靴の原型を失わせている。

 

この一週間、沢山の土を踏み、その一つ一つが足の裏に鮮明な感覚として残っている。泥だけではない。踏み込むたび緩やかに沈み込む砂利道はその石石の下に地下水の存在を確かに感じられたし、歩みと共に足元からバッタが飛び出す草原では両足の下から生命の芽吹きが伝わってきた。夢中になって歩いてふと振り返ると、僕の足跡型に花畑が凹んでいる様子に気付いた時はごめんなさいと呟きながら急いで自分の足跡を辿ってもと来た道を戻った。コンクリートを離れ、道なき道を行くと、足裏には想像を絶する多様性が広がっていた。

 

思えば2年間のイスラエル赴任期間中、この国以外でも様々に地面を踏んだ。ハンガリーの石畳、エジプトの砂漠、オランダの自転車道、ヨルダンの透き通った紅海、イギリスの濡れた歩道、ドイツの寒くも温かいクリスマスマーケットの小道、ボツワナの大地、ジョージアの新緑、ジンバブエの広大な滝。まだ書ききれない思い出が足の裏の感覚とともに残っている。

 

物理的行為に限らず、仕事でも多くの場数を踏んだ。ときに笑い、ときに緊張しながら、沢山チャレンジし、沢山失敗し、沢山学んだ。イスラエル生活にある意味清々しくピリオドを打てる大きな理由の一つは、数えきれない失敗を生み出せたことのように思う。チャレンジし、失敗することの意味を、イスラエル人とこの国の文化が教えてくれた。失敗を恐れず将来の成功への必要プロセスだと捉える価値観を、この国の人たちから全身に享受した。思い返せば恥ずかしいことばかりだが、どれも大切な学びとして、心の中の足の裏にしっかりと感覚が刻まれている。

 

これから、あるときは軽快な、またあるときは険しい道のりを進むことになるだろうが、いつも足の裏の感覚を研ぎ澄ませながら、一歩一歩経験として消化してきたい。これからも臨場感のある人生を。

イスラエル旅行のすゝめ

イスラエルに移住してはや2年が経とうとしている。エルサレム死海を抱えるこの地はやはり一定の引力があるようで、数えてみると今まで20組28名の家族・友達が日本やその他の国からわざわざ訪ねて来てくれた。アリガテエ。仕事関係の来客や自分たち自身の出入国も加えると、もはやイスラエル国境上の人の出入りはウィンブルドンのラリーを見守る観衆よろしく右へ左へ首を振って把握せねばならない。

そういう背景もあって、イスラエルの観光情報について質問を受けることが増えたので今まで我が家が目撃してきた旅程を纏めたい。イスラエル観光に興味がある人の参考になれば幸いだし、そうでなくとも今後僕がこのページのリンクを送れば済むようになって助かるーという寸法だ。

 

イスラエルを訪れた友人たちは多かれ少なかれ口を揃えて「怖い国というイメージしかなかったけど全然違った!最高な国か!」という感想を残してくれているが、もちろん時期によっては隣国(パレスチナレバノン、シリア、ヨルダン、エジプトに囲まれている)との緊張が高まり危険度が増す・昨今で言えばコロナの脅威等もあるので旅行タイミングは入念に吟味することがおすすめだ。

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筆者在住のテルアビブ

 

 

イスラエル基本情報

国土面積:四国と同じぐらいの大きさ

観光資源:遺跡系、自然系、街系に分けられる

交通手段:主要場所はバス・電車 他は車必須

必要日数:2~3日が相場(飛行機移動時間除く)

嬉しい点:大抵の人は英語通じる

厳しい点:東京より物価が高い

懸念事項:7-9月は激アツ(40℃近い)・12-3月は雨季という悩みがあるものの、この期間に来た人も十分に楽しんでいる

 

◇基本編

テルアビブ、エルサレム死海は最上位に躍り出る。見てきた中ではテルアビブに宿泊しつつ、エルサレム死海を1日に纏めて訪れるという旅程が一番多いように思う。とはいえそれぞれ膨らませようと思えば1日で収まらない程のコンテンツ量なので取捨選択が必要だ。

 

テルアビブ

一番の都会。地中海に面しつつレストラン等が豊富で、夏になるとバケーションの欧米人でごった返す。夏のドレスコードは半ば水着となり、町中に海パン小僧が現れる。南部に位置するJaffaは美しい街並みが魅力的。レンタル電動キックボードで地中海沿いの自転車道を走り抜けるのはマスト体験。

 
 
 
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エルサレム

テルアビブから車で1時間の聖地。壁に囲まれた旧市街地はユダヤ教キリスト教イスラム教・アルメニア教に4分割されており、それぞれ大きく異なる趣を醸し出している。嘆きの壁に向かってひたすらお祈りしている人や(ユダヤ教地区)、キリストの亡骸が処刑後横たえられたとされる岩にしがみつくように泣いている人など(キリスト教地区)、宗教から距離のある僕たち日本人の価値観を容易に揺さぶる光景が広がっている。時間が許せば入場無料のホロコースト記念館も必見。

 
 
 
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死海

浮く。15分もすれば飽きる。体に引っかき傷のある人は激痛が走るので注意。そうでなくても長時間入ると各所(大抵の場合まずデリケートゾーンから始まる)に痛みが始まるので注意。水中でオナラをするのは同様の理由からご法度らしい。

 
 
 
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◇応用編

基本編の3箇所で1-2日は悠に過ごせるが、もしそれ以上の時間が取れそうとなればここから先はいよいよ個人の好みに依るところとなる。以下、遺跡系・自然系・街系・その他の4つに分けて紹介する。

 

遺跡系

Bet Shean

紀元前数千年から紀元数百年にまで渡る幾層もの年代の遺跡が一箇所に集中して見られる。

 
 
 
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Masada

崖の上にそびえ立つ広大な世界遺産遺跡。超広い。

 
 
 
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Jerico

キリストが悪魔の誘惑を受けたとされる場所。崖沿いに張り付くように作られた遺跡は興奮する。

 
 
 
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Caesura

地中海沿いの遺跡。テルアビブから車で45分ぐらいとお手軽に行ける。

 
 
 
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自然系

Mizpe Ramon

端が霞んで見えないほど大きいクレーター。地球でけーとなる。

 
 
 
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Avdat

砂漠のど真ん中にある谷。スターウォーズの世界に入り込んだ気分になる。

 
 
 
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街系

ベツレヘム

キリストの生誕地とされる。バンクシーの有名な壁画もここ。

 
 
 
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ヘブロン

ユダヤ人・パレスチナ人が同一区画に住んでいる唯一の場所。ショッキングな現実が待っているが、個人的には必見。以前ブログも書いたので貼っておく。

 

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ハイファ

イスラエル第三の都市。庭綺麗。

 
 
 
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その他

ワイナリー

イスラエルワインは世界的にも徐々に有名になりつつある。国内には多くのワイナリーがあり、安価で美味しいワインを飲み比べられておすすめ。

 
 
 
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◇海外バーター編

イスラエルはヨーロッパに近く、各国へのLCCも多く飛んでいる。他国と組み合わせて旅程を組む人も珍しくない。

 

キプロス

飛行機で30分の近さ。得られる経験はほぼテルアビブと同様らしい。

 

ヨルダン

イスラエルからバスツアーも出ている。日帰り~2泊3日の選択肢があるが、日帰りでもペトラ遺跡に行けて十分楽しいらしい。

 

マルタ

おしゃれな響き。地中海を一層味わいたい人向け。

 

ギリシャアテネ

アテネはコンパクトな街なので1日で一通り見回れる。バーターにちょうど良い。

 

以上、我が家が目撃してきたイスラエル旅行のオプションだ。20組28名の皆さんはここから各々の組み合わせを施し大いに楽しんで帰って頂いた。中にはテルアビブから一歩も外へ出ず地中海や美術館で毎日ゆっくりと過ごす人もいたが、それもまた一興だろう。逆にここで紹介できていない観光スポットが多く存在するのも事実だ。

なお全てを行き尽くしてもはや鳥を追いかけるばかりになった日本野鳥の会ワタナベは、もっぱら何もない場所に行ってただカメラを構える日々を過ごしている。

 
 
 
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100通りの愛してるを伝えた結果

クリスマスですね。突然だが皆さんは愛する人に愛を伝えているだろうか。

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今日はこの人に100通りの愛してるを伝えた結果を記します


「いえ~~~~~~〜~い 君を好きでよかった」

「愛してるの言葉じゃ足りないくらいに君が好き」

「本気なんです 本気で好きなんです」

 

古今東西様々な愛の伝え方がある。「好き」という直接的な表現に抵抗がある人は月が綺麗と言ってみたり、甲子園に連れてってと言ってみたり、フィルムは用意したよ一生分の長さをざっと115万キロと婉曲的に伝えてみるのも良い。それすら躊躇する口下手さんは幽霊に化けてロクロを回すと効果的かもしれない。言葉でも、言葉以外でも、愛の伝え方は無限大だ。

ワタナベは最近、愛する妻に100通りの愛を伝えた。クリスマスの浮かれた風が「其の方の!やむごとなき様見てみたし!」と煽ってくるので結婚歴3年28歳男性の等身大をここに召しておきたい。

 

「現代ってどこか物寂しいよね、SNSで簡単に人と繋がれる割に、そこにあるのは触れ合いというよりむしろ殺伐とした空気だし。本当にぬくもりのあるやりとりって、手に入れるのが難しくなってるね。もっと安心感があって、ポジティブな気持ちになれる空間を作りたいなあ。例えば愛する人からのラブメッセージだけをやりとりできるアプリがあったら嬉しいかも。」

 

ほーん、確かに。でもそれだったら、アプリに頼らずとも勝手に始めれそうやん。

というわけでワタナベはこの雑談を耳にした日を境に、早速妻へとラブメッセージを送りつけ始めた。

 

オフィスから家へ帰る車の中、ボイスメモアプリを起動し、妻に対する愛を滔々と述べる。容姿のこと、性格のこと、最近起きた出来事のこと、ありとあらゆる角度から、毎日のように妻を愛で倒し、褒め倒す。ハンドルを握りながら3,4分の愛を囁き、編集なしで送り付ける。ぶっつけ一発録り、これが毎日の帰路のルーティンとなった。

 

「何となく思い付きで始めただけだから、特に気にせず、時間あるときに聞いて。聞かなくても良いよ。感想はいらない~」

 

ひとまず100日に至るまでは一方的に送り続けようと決めた。恥ずかしさもあって、感想を聞くのは先伸ばしにしたかった。リアクションがなくとも、継続する理由は十分にあった。ルーティンを始めて早々に気付いたのだが、ラブメッセージは送る側も幸せになれるのだ。自分の愛する人の、愛おしい要素に思いを馳せ、それを言語化して伝えるのだ。僕の脳内がお花畑状態になることは皆さんも想像に難くないだろう。

 

元々口数の少ない妻は、オンラインでも発言は多くない。次第に僕らのLINE画面は異様な光景を見せ始めた。

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見方によっては激しいストーカー被害の証拠

 

一向にフィードバックのない妻と、飽きることなくボイスメモを送り付け続ける夫。危険な香りがするので念のため確認したことがある。

 

「嫌だったり、迷惑だったりしてない?」

「うん、してないよ。」

 

それさえ分かればよい。ワタナベは安心して相変わらず無反応な緑色の壁に向かって愛を囁き続けた。そもそもだが、ラブメッセージ放射器と化したこの28歳男性は妻の前に立つと想像を絶するボキャ貧と化す。口をついて出るのはいつも

 

「すき~~~(^.^)」

「かわいい~(^.^)」

 

の2単語だ。ちゃーん、はーい、ばぶー、と3つもの語彙を操るイクラちゃんにすら劣る、乳児もびっくりの退行具合だ。そんな口下手にとって、大人語で「すき」の内容を伝えることは自分の価値観を再確認でき、妻に対する「すき」をより深く享受でき、イクラ先輩へと一歩近づき、追い越し、更には妻に対してポジティブな感情をもたらせるかもしれない(少なくとも嫌な気持ちにはしていない)という何重にも価値のある行為だった。

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イクラ先輩からの守破離過程


先週この愛の囁きが100をカウントした。いよいよ妻に感想を聞く世紀の瞬間の到来だ。新たに相互理解を深めるチャンスにわくわくし、緊張が走る。もし突拍子もない感想をもらったら、ズッコケーでブログのオチにしよう、と邪な考えもよぎる。

 

そして、結局、感想を聞くのはやめておくことにした。今回は恥ずかしさが理由ではなく、皆さんに「は?」と言われそうな理由が1つと、「は?????」と言われそうな理由が1つあった。

 

「は?」と言われそうな理由

一度でも「嬉しい」とか「これからも楽しみにしている」といった感想を受け取ってしまったら最後、それが継続するモチベーションにも、そして言い訳にもなり得てしまうと感じたのだ。ポジティブな感想を直接聞くことで、将来僕が「あの時君がああ言ったから、良かれと思って続けたんじゃないか!」「僕は毎日のように気持ちを伝えてるのに、君といったら!」という押しつけがましい人格を表出させてしまう可能性を生んでしまうのだ。(そんなこと言いだす姿はとても想像つかないと妻に言われたが、可能性としてゼロではない。)

あくまで僕が勝手に、誰に頼まれるでもなく続けているという前提が重要で、これを貫くためにも感想を聞くのは避けておこうと思ったのが1つ目の理由だ。

 

「は?????」と言われそうな理由

世の中には一方通行だからこそ完成する美しさがあると思う。相手がどう思っているか分からないからこそ、うーんうーんと自分の感情と向き合い、愛を言葉の形に削り出して、ときに流暢に、ときにギクシャクと伝える過程に、純粋さが担保されることってあるように思う。

狙ってやってる感が出てしまってはお終いなのだ。こういうこと言われるの、嬉しいやろ?というスタンスが1ミリでも滲み出てしまっては、もうそれは僕が伝えたい純粋な愛ではなく、異物混入状態の感情なのだ。

例えば相手は体型を気にしているが、あなたはそんな相手の体系が大好きという場合、忖度して言葉を選ぶこともできるだろう。でもここでは「あなたのその体系が好き」と純粋な気持ちを伝えるのが僕の正解なのだ。愛を伝える行為は、受け取り手のことを鑑みない、ある種自慰的な活動だ。そのとき対峙すべきは相手の反応ではなく自分の心だ。(だから「こんなこと言われても嬉しくないもしれないけど…」と申し添えることはたまにある。)

ということで自分の感情の純度を保つためにも、感想は聞かないことにした。夫婦の相互理解はまた別の機会に譲ろうと思う。

 

「…だから結局感想は聞かないことにしたよー」と言う僕に対して、あろうことか妻は一言感想をこぼした。

「うーん、いつも沢山褒めてくれるから、恥ずかしくなっちゃうな。」

 

天才がここにおったわ。なにその100点の答え。そういうところが好き。

ということで、今か今かと妻のリアクションを待ちわびた28歳はゴールを迎えた途端、やっぱり知らない方がいいや、と掌を返す結末を見た。しかし、だからこそ、これからも純粋な気持ちを言葉にし続けられそうだ。明日の帰り道はどんな愛してるを伝えよう。

ルンバを買ったら股が開いた

習慣を手に入れることの難しさたるや、今更皆さんに問いかけるまでもなくご理解頂けるだろう。

 

英語を習得したい!1日10分のシャドーイングから始めよう

体を絞りたい!1日30回の腹筋から始めよう

教養を高めたい!毎日少しずつ哲学書を読み進めよう

 

人にはそれぞれの突如たる決意表明と持続可能(と当初は思われる)実行プランが降ってくるタイミングがある。しかし黄金の輝きと共に生まれ落ちた前途洋々たる計画は途端に錆が目立つようになり、Faf De Klerkのタックルを食らったかの勢いで3日と持たず砕け散る。

仕方あるまい、それが我々人間のネイチャーなのだ。賢く臆病だったホモ・サピエンスのご先祖様が限りあるエネルギーを休息というライフハックをもって効果的に活用した結果、現代人の誕生にまで至ったのだ。休息は食事・睡眠・性交と並んで僕らのゲノムに刻まれた極めて原始的な欲求の一つだ。だから10分のシャドーイングが10分の睡眠になり、30回の腹筋が1袋のポテチと1杯のビールになり、手に持つはずの哲学書youtubeになっているのはごく自然な帰結だ。

 

それを踏まえた上で論点となってくるのは意志の力だ。人間の強みである理性をいかに飼い馴らすか、結果的にいかに強い意志の力を手に入れるかというのが、糞便混じる海水でトライアスロンを開催し、40度にも達する環境でのマラソン開催を企図する賢い現代人のアジェンダというものだろう。例えば朝から晩まで働き、友人との飲みで大いに盛り上がって帰宅後即ソファへとダイブした瞬間、我々は運命の岐路に立たされる。

「正直、めちゃくちゃ悩んでます。気力も体力も使い切る時間が終わって、この長い一日の末、どうやって締め括ろうって。真剣に考えて、気づいたんですね。今日は特別に疲れてるんやって。別に明日から再開するので問題ないやんて。気付かせてくれて、ホンマにありがとう。今日は包み隠さず全部いいます。こうしてゴロゴロしてる時間がホンマに幸せやなって、そう思います🌹」

 

こうしてミスターサタン並みの戦闘力を誇る理性は、魔人ブウたる本能の前に為す術もなく砕け散り、口だけは一丁前に「いやこれには理由があって・・・」と観衆を納得させにかかる。想像を絶するだらしなさは、テレビの向こうの特定の誰かだけではなく誰しもに備わっている。

 

そんな大勢居る怠惰マンの一人として20ウン年生きてきたワタナベが驚くことにひとまず2週間の習慣化に成功している。その過程を記すことで、だらしない同盟の皆さんのご参考になれば幸いだ。

 

2週間持続している3つの習慣

柔軟・・・股関節周り(=股を割ること)に集中

筋トレ・・・自宅でできる自重トレーニング(腹筋+腕立て伏せ)に集中

語学学習・・・フランス語から始まり、ヘブライ語スペイン語に派生中

 

習慣化がもたらした成果

柔軟・・・90度も開かなかった股が130度まで開脚可能に

筋トレ・・・ヒョロガリが僅かながら筋肉質に

語学学習・・・ゼロスタートのフランス語で簡単なコミュニケーションが可能に

 

3日坊主を回避する3つのポイント

3日坊主回避策を敢えて綺麗にカテゴライズすると1.意志のハック2.活動内容のハック3.環境のハックに分けられる。言わずもがな2.3.は1.を達成するための間接的アプローチに過ぎない。以下順番に紹介する。

 

  1. 意志のハック
    理性はある意味ちょろい存在で、調子に乗らせてしまえばこちらのものだ。心の中の松岡修造に「いいぞ!君は正しいことをしている!その調子だ!」「確実に進歩しているぞ!今の君は昨日の君よりも強い!」と鼓舞してもらい、まんまとそれにノセられてしまえば良い。自分をノセる方法のうち2つを紹介しよう。

    方法論を漁る
    確立された方法論を学ぶことで安心感を抱くのは僕だけではないだろう。一人で闇雲に開脚してみたり筋トレを始めてみるよりも「こうしたら確実に足が開きます/筋肉がつきます」というお墨付きをもらったほうが自分の行為に自信と安心感が伴い継続につながるように思う。今やyoutubeで知識を仕入れることは簡単だ。溢れかえる情報から自分に合った・納得できる道を選ぶことが、持続への第一歩になろう。

    この動画の通りやったらマジで30度開いた

    初速をつける
    習慣化にも慣性の法則があるように思う。勢いがつきさえすれば継続も比較的容易だが、一度止まってしまった活動を再度動かすことは実に骨の折れる作業だ。そのため僕の場合重要だったのは初速をなるべく上げておくことだった。勢いよく飛び出した分だけ失速のタイミングを先延ばしにできたという寸法だ。例えばフランス語学習の初日は週末を丸一日使って初心者向けの教科書を一通り読み切り、挨拶等の基本を習得し、数多のyoutube動画を漁って自分に向いた勉強方法を見つけ、今後の勉強の方向性を定めた。これがもし「よーし毎日10分、まずはアルファベットを少しずつ覚えようー😆」というカジュアルなノリでスタートしていたら、途中で先行きが見えず脱落というパラレルワールドがありありと目に浮かぶ。

    この先生の素ぶりがすごく可愛い

  2. 活動内容のハック
    昨日まで怠惰な生活を送っていた人が突然100回腹筋をやれと言われても無理がある。何事も、手の届く内容でないととても習慣化には至れない。

    リーズナブルに強度設定する
    時間、距離、内容、全てにおいてリーズナブルな設定は必須だ。2時間もある筋トレメニューを毎日こなすことは非現実的だし、わざわざ何駅も先のジムに足蹴く通うことも難しい。時間や距離や内容、全ての難易度において確実に続けられそうな強度を設けるのが肝要だ。この点、世の中のゲームは良く出来ている。程々の難易度が課され続けることでユーザーは心を掴まれて止まず、習慣化どころか見事な中毒に見舞われる。ワタナベも語学学習においてDuolingoというアプリを使っているが、フランス語学習が面白いばかりについにヘブライ語スペイン語にも裾野が広がっている。

    流れを作る
    ここ2週間は晩御飯後のルーティンとしてストレッチ→筋トレ→シャワー→語学学習という流れが定着した。こうすることで自分の中の怠惰マンを極力抑え込めている。まず満腹で何もしたくないという晩御飯後はストレッチを始めるのに最適だ。どうせゴロゴロしているのならゴロゴロしながら実践できる種目からスタートし、徐々に立ち→ヨガマットの上と移動してストレッチを完結させる。その頃にはすでにマットの上にいるので筋トレを始める心理的ハードルがぐんと下がっている。筋トレで汗をかいて気持ち悪いので速攻でシャワーに足が向かう。シャワー後の火照りを冷ましながら語学に向かう。この順番をして柔軟・筋トレ・語学という3つの習慣を全て維持できていると言っても過言ではない。

  3. 環境のハック
    集中できるスペースとなると、カフェ派・図書館派・自宅派など、空間に対する多様な趣向が見られる。同様のことが習慣化にも言えるのではなかろうか。つまり人それぞれ、もしくは活動それぞれに、習慣化を達成するための適した環境がありそうなのだ。

    場を整える
    暑すぎるのも寒すぎるのも、運動を怠るには十分な理由たり得る。今回僕は気候に助けられたという点で非常にラッキーだった。現在のイスラエルは極めて過ごしやすく、Tシャツ短パンで少し肌寒いという環境は即ち筋トレやストレッチをするのにもってこいだ。温度・湿度・その他諸々の環境を整えることは馬鹿に出来ない。本気の習慣化を狙うなら、まず冷暖房機・除加湿機のリモコンに手を伸ばすことから始めても良さそうだ。

    ルンバが股を割る
    さらに今回習慣化をもう一歩促したのがルンバの存在だった。若干潔癖の気があるワタナベは綺麗に掃除された室内でも髪の毛一本落ちているとそこに寝転がってトレーニングをする気持ちが萎えてしまう。髪の毛一本などいつでもどこでも容易に落ち得るし、床を汚いと感じている訳でもない。それでも習慣化を破るには髪の毛一本という些細な理由は十分すぎるほど痛烈な一打だ。(妻の名誉のため、いつも綺麗な室内が維持されていたことに言及しておきたい。)
    そんな中、この夏我が家にルンバが到来し、僕と床との距離は急激に縮まることとなった。ピッとやってペッと掃除してパッと綺麗な床。はー床綺麗だよスリスリ。こうして一切の心理的ハードルが取り除かれ、ワタナベ史上最もスムーズに柔軟に移れる環境が整った。
    この秋、ワタナベの股はルンバによって開かれたと言っても過言ではない。

美術館で魚を捌きたくなった話

出張でアムステルダムに行った際、出張恒例の「ランチタイム美術館飛込トライアル」を実施した。昼前後のミーティングを美術館圏内に設定するスキルは年々増加している。

 

アムステルダム国立美術館は比較的コンパクトとはいえ1時間で全部をじっくり鑑賞する余裕などない。目ぼしい作品を1つ2つ選んでたっぷり時間を使い、あとは心を鬼にしてチラ見をカマしつつ脱兎のごとく歩を進めるのがいつものやり口だ。後ろ髪を引かれる思いは捨てきれないが、心の中の環境大臣が「今回ワタナベは全部は見れないと思います。だからこそ、今回ワタナベは全部見れないと思っている」と眼光鋭く言い放ってくれるので幾ばくかの安心感がある。

 

その中で今回、予定外に心を引っ張られた作品があった。一つは以下の風景画。1671年に描かれたアムステルダムの街並みだ。1671年といえば日本は江戸前期、水戸黄門常陸水戸藩主としてブイブイ言わせていた時代のことである。

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左上の指影は音を出すまいという努力の痕跡

 

そして以下が美術館を出たあと僕が写真に収めた現在のアムステルダム

 

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似た風景を探した訳ではない

 

ね、舞台装置がほとんど変わっていないの。それが思わず目を留めた一義的な理由。両者の比較から様々な考察を伸ばすことができるが自分が注目したのは、今も昔も、オランダ人も日本人も、押し並べて同じ対象を美しいと感じることができる人間としての「普遍性」だった。

もう1枚惹かれた絵画があったので紹介したい。同じく1671年の作品だ。

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一つ鳥好きから補足させてもらうと、ここに描かれている鳥は全て今日の地球上でも観察することができる。要するにこの絵画を見た瞬間、21世紀を生きるバードウォッチャーワタナベは突如として17世紀を生きるオランダ人画家と心が通じ合った錯覚に陥ったのだった。おお、フラミンゴの可憐さと狂気の混合具合堪らないよねと。おお、ミコアイサのパンダちゃん具合最高だよねと。

 

ギリシャ哲学を紐解いて先人の教えに触れるとき、時代遅れだなあ、なんて思わない。むしろ現代人は、2000年以上前の思想から、今なお感銘を受けることができる。そう思うと人間て、心の面はそんなに進化していないんじゃないのかな。」

最近上司がこう呟いた。なるほど技術の発展によって寿命が伸び、より健康で安全な生活は勝ち得ているかもしれないが、確かに根っこの心は長らく変わず在り続けていそうだ。世界の注目を集めるために21世紀生まれの少女がスピーチをすることは意味があることかもしれないが、人の心を揺するという目的だけを見据えるならば、ソクラテス孔子世阿弥の言葉を引用するだけでも十分代替可能なように思える。

 

真新しい体験の発明と、普遍的な美しさの再発見、どちらも同様に価値があるはずだ。じゃあどちらか一方選べと言われれば、なんとなく自分は後者を追求したいかなあ、ユーチューバーで言えば魚捌く系かなあ、などと想像する早足のアムステルダムだった。