ゲームオブスローンズ全話一気見したので感想

会社から帰宅し夕ご飯を済ませるや否やソファに倒れ込んでリモコンに手を伸ばす。テレビ画面上ではバッサバッサと人が切り倒され、妻は僕の背中にしがみ付いて「キャーッ!怖いよーッ!」と叫んでいる。この微笑ましくもおっかない光景がここ20日間の我が家の日常だった。

 

世界的なメガヒットとなったゲームオブスローンズ(以下GOT)を見始めた理由の一つは「世界的な流行を知っておきたい」というクソ真面目でビジネスライクなものだった。ここでの流行とはファッショントレンドのように毎年・毎シーズン変貌を遂げるような単発的・刹那的なものではない。GOTの放送スタートが2011年であることを考えると今回の流行はもう少し時間軸が長く、人の(少なくとも現代人の)根本部分に横たわるある種の普遍性を反映しているはずだ。その普遍性が何なのか、それがどういう形で流行として露呈しているのかを確かめたかった。というそれっぽい理由を今適当にでっち上げているのはキミとボクだけの秘密だ。

 

※以降ネタバレ含みます。

 

アドレナリンに飼われた現代人

Netflix and chillという言い回しが象徴するように、現代の、特に若者は、静かな家の中で明かりを落とし毛布にくるまったままソファに沈んでNetflixをぼんやりと眺めることで幸せをじんわりと噛みしめるのが好きな動物なのだと思っていた。これからの時代、僕たちの脳内ではセロトニンとかオキシトシンとか、所謂幸せホルモンが台頭するのだろうと何となく思っていた。

しかしどうやら必ずしもそうではなさそうだ。

何しろGOTを見ていたらchillとか言っている暇はない。飛び散る血しぶき、鳴り響く雄叫び、悲鳴、グロい効果音、生首、拷問、死体。幸せホルモンが分泌される余地は限りなくゼロに等しく、体内を駆け巡る物質はひたすらにアドレナリン。ショッキングな暴力シーンを見てはアドレナリンさんコンニチハ。悪者が成敗されてスッキリしてはアドレナリンさんコンニチハ。毎話毎話所狭しと仕込まれているアドレナリンスイッチによって体と頭の興奮状態は息をつく暇もない。

 

Netflix and chillというスラングは当初こそ文字通り「ネフリ見ながらソファに沈もうぜ」の意味で使われていたが、ある時点からは性行為への婉曲的な誘い文句としてアメリカの若者に浸透した。個人的な印象として、ここにも平和的・静寂感といったイメージを現代人に抱いていた。最近の若者はド派手な感情の起伏を伴うことなく日常生活の延長線上に自然と位置付けられたピースフルな性行為を好むのだろうなと想像していた。

しかしGOTはまたもや正反対の人のサガを露わにしている。情熱的なセックス、開放的な娼館、乱暴なレイプ、画面上の性描写は毎話荒々しく、やはりアドレナリンドリブンな人間模様が描かれている。見ているこっちもソファに沈む時間よりもそわそわしたり飛び上がる時間の方が多くなる。

 

蓋を開けてみると、チルってる人達がこぞって夢中になっているのはアドレナリンがビンビンと分泌されるような作品で、ここ数年の世界的な流行はアドレナリンに支配された人間の構図を表しているように映った。ハレとケのバランスをとって生きている人間にとって、このトレンドは僕たちの日常生活がより平和に・クリーンになっているからこそ、非日常性・祭り性への需要が高まっていることの表れなのかもしれない。

 

秀逸なアドレナリン噴出装置GOT

GOTがアドレナリン噴出装置として長年機能し続けた理由は、一つに毎話クライマックス感があるからだろう。毎話クライマックス感があるとはどういうことか。だいたい毎話主要キャラが死ぬということだ。主人公なんだろうな、ラスボスなんだろうな、と思っていた人が序盤からバッサバッサ殺されていく。殺した張本人が本当の主人公なんだろうな、ラスボスなんだろうな、と思っていた彼らすら次のエピソードで殺される。そんなペースで殺戮が続いても物語が成立し続けている。つまり主人公級のスポットライトを当てられた登場人物が無数におり、チョイ役まで含めると星の数ほどに上る相関図が実現している。僕は結局最後まで「この人誰だっけ?」という鑑賞中の妻への質問が途絶えなかった。

GOTがある種の賭けに出たであろう点は、序盤にほぼ全登場人物を出し切ったことだ。少年ジャンプ的な後出しジャンケンの構図はほとんどなく、一旦手札を全部見せ、絶妙なバランスで全キャラにスポットライトを当てていき、順番に作品から退場させる。桃白白もピッコロもベジータフリーザもセルもブーも序盤に全員登場する。ヤムチャクリリン亀仙人も悟飯も神様も界王様も全部最初から登場している。そして一話ごとに一人また一人と倒されていく。しかもあろうことか孫悟空が最初に死ぬ。めっちゃショック。どうやって収拾つけるのか見届けないと。次にまた思ってもなかった主要キャラが死ぬ。めっちゃショック。どうやって収拾つけるのか見届けないと。以降繰り返し。

ピッコロを倒したタイミングやフリーザを倒したタイミングなど要所でピリオドを迎える少年ジャンプ的な構造とは違い、GOTは中間チェックポイントを与えることなく最後までマラソンを続けさせる。これで「ワンピースは空島編までなら読んだことあるよ」という状況が生じ難くなっている。一方でこの構図は特に序盤、あまりの登場人物の多さに物語が複雑になりすぎ、ある程度の鑑賞者離れは避けられないというリスクも孕む。GOTが賭けに勝ったというのは言い換えると、絶妙なタイミングにアドレナリンスポット(=誰か死ぬ)を設置することで鑑賞者を繋ぎ止め続け、膨大な相関図が孕む複雑さを乗り越えさせることに成功したということだ。ただ通り一遍にアドレナリンドバドバーな仕掛けを置くのではなく、絶妙な配置計算があったが故に一大ムーブメントに繋がったのだろう。

 

あなたとわたしは別の人間

「人間みんな違う個体。100%同じ感性・考えを持った人なんていない」というのが見終わった時の一つの感想だった。GOTでは「昨日の味方は今日の敵」構造が頻出する。一大勢力Aと一大勢力Bの対立構造でAがBを滅ぼした際、次に起こるのはA内の対立だ。ある瞬間まで「打倒B!」というマニュフェストの下で一致団結していた団体は、共通敵を失った途端それまで気付かなかった「昨日の味方」との意見の食い違いに目が向くようになり、終いには二分してしまう。しかもこの構造はマトリョーシカのように連綿と列なり、最後には個人対個人にまで枝分かれしうる。

別の個体なのだから、誰しも意見が異なる部分は必ず存在する。共通項を見出して意気投合することはもちろん素敵なことだが、それと同様に相違点にも意識を向け、お互いに理解し合っている状態こそが長く人間関係を保つ上では本当に健全な状態と言えるのではないだろうか。長続きしないカップルが往々にして迎える局面もこれと同じだ。最初は相手の「好きな部分」ばかりが目に入り爆発的な幸福を享受するものの、徐々に落ち着きを得るにつれ相手の「認め難い部分」が目に付くようになり、終いにはそれを見過ごせず破局に至る。あなたとわたしは別の人間だという前提に立って、初めから相違点を見出し整理しておくことが、人間関係を長続きさせるコツなのだろう。

 

非を認め継続する美しさ

GOTの爽快な点の一つに登場人物が「失敗を認める」ことがある。人がバッサバッサと殺されていくほど作品内の関係者は重要な意思決定の局面に晒される。決断内容は時に理にかなっているように見えても必ずしも良い結果に繋がるわけではなく、残念ながら重大な失敗に直結し激しく追及されるシーンもある。そんな時ヒール役は決して己を曲げずヒール性を増し、そうでない登場人物はきちんと非を認め反省に繋げる。特に後者は見ていて気持ちがよく、勇気を与えてくれる。ある意思決定が過ちかどうかは結果を待たないと分からない。熟考の末の結果が過ちかどうかはあくまで結果論なのであれば、何度失敗しても成功するまで反省を繰り返して挑戦し続けさえすれば失敗はあくまで成功のための肥やしとなり、失敗としては残らない。最近よく耳にする成功・失敗論ではあるが、GOTではそれが物語として美しく表現されていた。諦めたらそこで試合終了ですね安西先生

 

紡げ己のストーリー

GOT上最も頭のキレる役ティリオンは「人々を団結させるものとは?軍?金?旗? 物語だ。この世で物語以上強力なものはない」と言った。心底納得のいく主張だった。人の団結どころか、自分自身を納得させ前進させるのもまた物語だろう。物語とは過去の出来事や自分の身の回りの事象から意味を見出し、学びを得ることで生まれる。物語とは次なる行動に繋げるための、自分に自信を取り戻すための、未来に希望を抱くための武器となる。どうせだったら70時間を費やしたGOTからもなるべく自分の物語に還元しようと今回はいくつか発見を記した。

どうか皆さんの物語も是非聴かせてください。そして共通点も相違点も見出して、僕と仲良くしてください。