刻んでけポジなバイブス

無償の愛みたいなものを感じることは人生において必ずしもザラにあることではないと思うのだが、幸いにしてひしひしとそれを噛み締める日々を過ごさせてもらっている。

 

僕が地球の裏側に赴任するにあたり妻は4年務めた仕事を辞め、どんな生活が待っているかもよく分からない中で未知なる中東生活について来てもらっている。夫婦揃って海外経験がほとんどゼロに等しいという前提条件も加わり、何から何まで手探りでのスタートとなることに多少なりとも日々彼女の抱えるストレスもあると思う。そんな中で自分の出来ることと言えば可能な限りこの生活を楽しむ機会を提供・享受することと、日々のストレスとなり得る要因を極力最小限に留めるサポートをすることぐらいだ。完全に僕の都合に合わせる形である意味それまでの人生を一旦打ち切って同伴してくれ、毎日3食を用意してくれ、掃除洗濯その他諸々家の面倒を見てくれていることを鑑みれば、自分にできることであれば何でもやらさせて頂きますの気持ちを抱くことは必然でもある。

 

この文脈で妻には現地の語学学校に通ってもらっている。それは彼女にとっていい暇つぶしでもあり、新しいことを学ぶという楽しみの場でもある。そもそも英語すらままならなかった彼女にとって一足飛びで現地語を学ぶということはいくばくかのチャレンジでもあり、上手くいくかどうか・楽しめるかどうかは実際に始めてみないと分からない賭けの世界でもあった。

幸い、賭けは吉と出た。本人をして「私って実は語学の勉強が好きだったみたい。今まで思ってもみなかった。」と言わしめるほどに楽める体験がそこにあった。20人強のクラスメイトはヨーロッパ各国、アメリカ、ロシア、その他様々な国籍の生徒によって構成され、今となっては実に国際色豊かな友人に囲まれながら語学学習に勤しんでいる。驚くべきことに現地語の上達はもちろんのこと、それに付随して英語のコミュニケーション能力も格段に向上していることが側から見ていてもよく伺い知ることができる。

 

幸か不幸か自分の日常生活、つまり仕事は全て英語で完結できてしまう世界なので現地語を習得する機会もインセンティブも比較的小さい。ここぞの相槌で使えるスラングばかりが僕の現地語辞典に積み上げられていき、まともな会話をすることは叶わない。一方で妻は日々モリモリと現地語習得に勤しみ、とうの昔に僕は置いてけぼりとなってしまった。先日も2人でレストランに行った際ウェイターさんと妻が何やら現地語で会話していたかと思うと次の瞬間チーズケーキとカプチーノが運ばれてきて衝撃を受けた。「ビール、ください」ぐらいの現地語であれば自分も発することができるが彼女は既に「とりあえず生」レベルの言い回しを使いこなしている(と自分の目には映る)。つい今しがたも2人でタクシーに乗ったところ15分の乗車時間中妻と運転手さんがひたすら現地語で会話を織り成し、自分の付け入る隙は微塵もなかった。英語で遮るのもどこか申し訳ない気持ちになるほどに妻は生き生きと運転手さんの話に耳を傾け、言葉を発していた。

 

語学学校の友達と現地語・英語でコミュニケーションしているのを見るにせよ、レストランでチーズケーキとカプチーノの到来を目の当たりにするにせよ、運転手さんとの会話を聞くにせよ、折々で抱く僕の感情は「喜び」だ。一切の他意のない「我が事のように嬉しい」という感覚だ。

未知の環境で逞しく生きている彼女のタフさが誇らしいとか、語学習得に向けて一生懸命に励む彼女の姿勢が尊いとか、実際に目まぐるしい上達を見せている彼女の能力が晴れがましいとか、そういった感情がないとは言わない。ただそれ以上に彼女が今の生活・語学学習というプロセスを心から楽しんでいる様子をみるにつけ、それを我がことのように嬉しく思うのだ。自分のことを全て投げ打ってでも、無償の愛を持って彼女の喜びを支えたいと感じるという意味ではアガペーに近いし、それでいて決して上下の関係ではなく対等な個人としてそういう感情を抱いているという点では隣人愛に近い。いずれにせよ彼女の喜びが即ち自分の喜びという構造になっている。

 

自分も周囲の人たちに対して似たような影響を及ぼせるような人になりたいなと心から思う。自分の喜びがそれ即ち周囲の人の喜びに繋がるだなんて、なんと喜ばしいことだろう。ワタナベの乏しい人生経験の中では歌がそれに近かった。歌うことは自分にとってとどのつまり自慰行為でしかなかった。自分が気持ち良いから歌うし、自分で納得できないから技術を磨くし、興味があるから沢山歌の研究をした。全ては内的動機によって突き動かされた結果の行動であり、そこにはモテたい・人によく見られたいという類の外部要因に求めるモチベーションは介在する余地がなかった。そして結果的にそんな自分の歌を好きだと言ってくれる人・評価してくれる人が現れ、自慰行為は結果的に自分以外の人にもポジティブな影響をもたらした。

 

打ち込むことと楽しむこと、それが万事の出発点にあるらしいことを事あるごとに胸に刻みたい。なにせ打ち込むことも楽しむことも実現するには努力を要することだ。しかしその暁にはアガペーと隣人愛の渾然一体となったポジティブな広がりが待っているはずだ。