自慰行為の拡張

童心に帰ったとはこのことかと言わんばかりに心の中の少年が呼び覚まされている。バズーカのような巨大カメラレンズによってドカンと巨大隕石でも打ち込まれたかという勢いでワタナベの心が大きく揺さぶられている。小・中学生の頃、新しく買ったゲームをやりたくて仕方なく登校中も授業中も下校中もとにかくゲームのことで頭がいっぱいだった感覚に近い。おいでよ どうぶつの森を購入した直後、連立方程式を解く間も走れメロスを読む間もKenとMs.Greenがトンチンカンな会話を繰り広げている間も常に頭の中はリンゴを収穫しタイを釣ってたぬきち商店でシックなテーブルを買うことでいっぱいだったあの時の心境に近い。新しく購入した巨大レンズで野鳥の写真を取りに行きたいという思いがいつなんときも頭から離れず今すぐオフィスを飛び出して野山に繰り出しシャッターを切りまくりたいという衝動が今週いっぱい駆け巡り続けた。

 

日常生活で気をつけている自分ルールの一つに「極力週末だけを喜ばない」というのがある。より詳細には「平日は避けたい対象であり週末のみが喜ばしい日であるという認識をなるべく持たない」ことを心掛けている。平日・週末を問わず自分のやりたいことをやれている人生でありたいし、もしそれが実行できているなら週末だけを特別扱いせず毎日を喜んで迎え入れられるはずだからだ。理想論だが華は金曜日だけに捧げるのではなく毎日に添えられていたい。

しかし今週ばかりは様子が違った。自分ルールがグラグラと揺らぎまくりひたすらに週末の到来を待ち望んでいた。なにせ鳥には鳥の営業時間がある。彼らは夜明けとともに目を覚まし日暮れとともに寝ぐらへと帰って行く。不幸なことにワタナベはほとんど時を同じくして一日の社会的活動を開始し、終えることになっている。彼らが姿を現わす時間の大半をオフィスにひっそりと身を隠して生息しなければならない運命となっている。なんとも歯がゆいすれ違いだ。好きに時間をいじってウハウハとタイを釣っては売り捌いていたどうぶつの森とは訳が違う。

 

仕方なしに毎日帰宅してはネットの海からカメラの知識をサルベージし、実践の時を今か今かと待つというルーティンを繰り返した。どうしても触らずにはいられないので毎朝少し早く起床してはバズーカを携えてベランダに立ち周辺の木々にとまる鳥たちを試し撮りして高揚感を増強していた。側から見れば紛れもないご近所盗撮野郎に映っただろう。毎朝パジャマのままベランダでバズーカを構えているあのアジアンボーイは誰なんだといつ声を掛けられてもおかしくはない状況だっただろう。そんな理性を司る自分の懸念を振り払い、本能を司る自分がサカナくんのギョギョギョ~~↑↑と同じテンションでウヒョヒョ~~~↑↑と声なき悲鳴をベランダから上げていた。

 

ふと、この嗜好はどのようにして形成されたのだろうという素朴な疑問が浮かんでくる。きっかけは人生の各所にあった気もするし、同時にこれといった決定的な出来事が思い浮かぶわけでもない。父親の影響で7歳ごろからバードウォッチングを始め、今年でかれこれ20年になる。その20年間に多少の浮き沈みはあれど常に鳥に対する興味は薄れず、日常的に鳥に対して注意を向け続けていた。街を歩けば鳥の声に歩みを止めることは頻繁にあったし、わざわざ石垣島まで鳥を見に行ったりもした。今大人になって、遂に巨大カメラレンズを買ってしまうに至るまで、思えば20年間で大きく2つの並行した変遷があった。

 

1つ目は周囲の人の反応だ。小学2年生から鳥に興味を持ち始めたため必然的に小学校では鳥博士の称号を賜り、学活の時間にワタナベガイドがクラスを率いて近所の公園にバードウォッチングをしに行くというイベントすらあった。果たして何人のクラスメイトの心にどれぐらい響いたのか今となっては推し難いが、残念ながら印象的な反応が返ってきた記憶はない。つまりはノーリアクションだったのだ。特段の期待も希望も抱いていなかったワタナベ少年はただただ自分の趣味を人に伝えることのインセンティブを失い、バードウォッチングは敢えて人に共有する必要のないものという認識を携えるようになった。中学もこの意識が変わることはなかったが高校で転換が訪れた。高校時代のマブダチの一人にゆーごりんという野球部キャプテンがいた。ゆーごりんは勉強も野球も真っ直ぐ真剣に取り組む超のつくええヤツで、不真面目な自分とは正反対が故にいつもお互いに「お前みたいになりたいなー」と言いながらツルんでいた。ある日彼と歩いていると鳥の声が聞こえたので反射的に「あ、シジュウカラが鳴いてる」とポロリとこぼした。瞬間、ゆーごりんのリアクションたるや猛烈だった。なに鳥のこと詳しいの⁉︎そんな鳥の名前知らないんだけど⁉︎声聞いただけで分かるの⁉︎ 思ってもみないリアクションに一通りのシジュウカラの説明をすると心からの感嘆の言葉が帰ってくる。この高校二年秋の出来事は自分にとっても衝撃だった。鳥のことに興味を持ってくれる同世代っているんだと目から鱗が落ちる思いだった。大学に入ると更にこの傾向は加速し、10年ぶりにワタナベガイドのバードウォッチング会が、今度は決して先生の強制ではなく有志の参加者によって実施された。自分の趣味を周りに共有するインセンティブは時を経るごとに増えていった。

 

2つ目の変遷は共有ツールの発達だ。自分の世代は前略プロフィールに始まりmixitwitterinstagramと自らの身辺を公開する道具の発達と共に歩んできた。その潮流の中で自分の生活や思いを世界に向けて投げかけやすくなると同時に他人の反応を拾いやすくもなった。例えば僕は鳥の声や行動で季節の変わり目を認識する。モズが高鳴きを始めれば「もう秋だなー衣替えをしなくちゃ」となるし、ツグミを見なくなったら「冬が終わるなーもう少しで暖かくなるか」となる。自分にとっては至って自然反射的な感想だがある日そのような旨をtwitterで呟いたところ友達から思わぬ反響があった。どうやらこの感性の持ち主はごく少数派であると同時に一定数の人がその感性を美しいと感じてくれるということが分かった。これも自分の趣向をシェアする行為に拍車をかける出来事だった。

 

20年間鳥を観察することに興味はあれど写真を撮ることには一切惹かれなかった。それは自分が鳥の観察を楽しめていれば満足であり、一連の趣味はあくまで自慰行為としてのバードウォッチングに留まっていたからだ。このタイミングで写真を始めようとしつつあるのは、自分の見えている世界を自分以外の人にも楽しんで欲しい(本来楽しめるポテンシャルを有しているのにそのこと自体に気付いていない人を振り向かせたい)という思いが臨界点に達したからのように思う。幸い20年の訓練を通して、人が通常気付かない鳥の声や姿を捉えることができる。そんな僕だからこそ何気ない日常にこんなに素敵な鳥の生活があるんだよと提示できることがあるように思う。ストレスフリーだった自慰行為に2kgの負荷がのし掛かったが、それもまた楽しいに違いない。