貴方の日常に彩りはあるか

非日常は良くも悪くもあっという間に日常へと変貌を遂げるもので、異国の地での生活はすっかり自分の無意識に溶け込んでしまった。買い物、食事、移動、日常の一つ一つの動作行動に一定の緊張感を持ち続け、見るもの聞くもの全てが新鮮に映った半年前に比べ、今となっては身を囲む全ての環境が舞台上の大道具のように存在感を一段階控えるようになった。

日々の通勤ルートにおいてほんの僅かでも良いから毎日道を変えてみる/いつも同じ道を通るとしてもその路上で何か新しい発見を一日一個必ず見るけるよう心掛けると認知機能の維持向上に良いらしいという話を聞いたことがあるが、なるほど確かに周囲に注意を向けていた半年前の方がその瞬間瞬間に脳内の明瞭さを感じたし、心もダイナミックに動き、認知する世界に彩りがあった気がする。

 

ここ半年で経験した慣れにも大きく2種類、「所作に対する慣れ」と「文化に対する慣れ」があるように思う。

前者は至って単純で、買い物であれば肉コーナーでの注文の仕方・レジでの支払いの仕方、外食であればオーダーの仕方・謎の現地食材の食べ方・支払いの仕方等、日常生活の折々の場面において一つ一つお作法を身につけるプロセスとなる。それぞれのトピックは一度覚えてしまえばそれ以降困ることはない。

一方で後者はもう少し広義の慣れになる。例えば我が家の家電はここ半年で数え切れない程プラスチック破損を繰り返している。プラグの差し込み口、掃除機の接続部分、冷凍庫の取っ手部分、それらがバキッと威勢良く飛び散る度、瞬間接着剤を用いて貼り付けることを繰り返し、いつしか僕は完璧な接続面を実現可能にする接着屋として我が家で名を馳せることとなる。ここまでであれば所作に対する慣れで留まるがワタナベが身を置くはそれでは済ませてくれない修羅の国だ。僕は最早作りが甘いことはこの国の文化の一翼を担うものであるという考えに辿り着くまでになった。我が家の直面した破損・故障は何もプラスチックに限ったことではない。窓が開かない・冷房が効かない・食洗機が動かない・カーテンレールが落ちてきた、例を挙げればキリがない。一つ一つの対処法も異なる上、そもそもこんなに不備だらけの家に放り込まれたという時点でジャパンマインドの持ち主であれば多かれ少なかれ発狂を禁じ得ないのではと拝察する。ここで活躍するのが文化への慣れだ。「何もかも、基本的に作りは甘いものである」という認識を携え、設備のボロさを広義の文化として受け入れることで、何事にも動じ難くなるのだ。

これは日常生活における心の平安を勝ち得るという意味では非常に優れたやり口だ。現に今では動かない食洗機も外れかけのカーテンレールも舞台装置の一部としてひっそりと意識の奥底にしまい込まれており、一切のストレスを僕に与えてきやしない。しかし一方で危険にすら感じるのは当初こそ心に引っ掛かっていた事柄を「慣れ」という名の下に意識の外側へ追いやってしまうことで、自らの認知世界から彩りを削いでしまっているかもしれないという事実だ。日常がルーティンで溢れ、全てが「いつもの光景」になった時、僕を囲む世界はモノトーンに映っているだろう。なんとなくだが、それは今僕が一番避けたいビジョンだ。

 

そう思うとつくづく今の仕事(というか自分が今持っている名刺に刻印された会社名の下で行なっている活動)は毎日が新しいことの連続であるという点でこの上ない色彩源であり、良い時間潰しであり、人生をより豊かにしてくれる刺激剤だと思う。個別の所作について慣れを覚えることはあれど、「文化に対する慣れ」のような広義の習得は幸か不幸かまだ程遠そうだ。

 

ところで直近の2ヶ月で8カ国14都市へと足を運んだ。街の探索はもとより、各地合わせて計13カ所の美術館・博物館を訪れ、加えて1本のクラシックオーケストラ、1本のミュージカル、そして1本のモダンバレエを鑑賞した。クラブも1回行った。目的は多々あったが、一つ一貫して「新しいものの見方を見出し、僅かでも日常に還元すること」は意識し続けていた。芸術方面に全くと言って良いほど明るくない自分にとって、多くの人から支持を得ている芸術作品とはなんなのか、人はどの部分にどうやって魅力を見出しているのか、それを受けて自分自身の価値観・世界の見え方はどのように変化し、彩りが増すのか興味があった。

結論、残念ながら今のところ僕の日常生活に大きな彩りは訪れていない。もちろん一つ一つの旅は旅行としてこの上なく楽しめたし、一つ一つの作品についても語ろうと思えば自分の意見・感想をつらつらと述べることもできる。最低限作品を楽しみ、その価値を享受するための準備もした。絵画であれば鑑賞における一般的な前提知識と作者・国・時代柄・画法などの基礎情報を蓄えた上で実物に臨むと同時に、準備はしておきつつもその一切を取っ払って生身の感性だけを抱えて作品に対峙もした。お陰様でめちゃめちゃ楽しめた。が、残念ながら日常に還元できる何かを持ち帰ることは今の所できていない。一連の旅路を経てあそこはあーだったここはこーだったと語れはするものの、それはあくまで非日常を非日常として味わい尽くしたまでであり、期待した日常への還元は得られなかった。どれも非日常の中で完結してしまう出来事だった。

 

かと思えば昨日、ひょんなことから日常に彩りを感じる出来事があった。

今住んでいる家はお隣にアメリカ人の若い男性が1人で住んでいる。身長2m近い巨人なので名をコービー、非常に聞き取り難いテキサス訛りを話すのでここでは適当な方言で代用しておく。先週コービーから突然一本の連絡が入った。

「ヘイブラザー、今夜ウチでパーティーするっちゃけん椅子2脚貸してくれへんか。」

勿論と言って貸した椅子が昨日返ってくることとなった。またコービーから入る一本のメッセージ。

「ほんまサンキュ。今夜椅子返すべ。今ちょうど友達来てるから一緒にビールしばこや。ついでに明日のプレゼン練習付き合ってちょんまげ」

あれよあれよという間に妻と2人でコービーの家に上がり、初対面の彼の友達と乾杯して気付けば彼の家のリビングで3人がビール片手に座り、アメリカエネルギー会社の海外進出戦略に関するプレゼンを聴くというシュールな光景が目の前に広がっていた。ソファに座る3人が目の前にそびえ立つコービーの巨体を見上げるようにしてプレゼンを聴くさま、プレゼン練習とは言いつつも皆で和気藹々と話しながら発表を進めるさま、一生懸命コービーの言葉に耳を傾けふんふんと頷く妻の様子、冷静になると全く知らない人が隣でビールを飲んでプレゼンに対して一緒にあーだこーだ言っている現実、全てが日常でありながら非日常で、思わず笑みが溢れてしまうような暖かい空間だった。心は静かに踊り、間違いなくそこには彩りがあった。

 

何が日常で何が非日常か、何が色彩豊かで何がモノトーンかという話はまた別の機会に譲るが、これからも自分にとっての彩りを集め続けたい。非日常の体験もいつか日常に還元されると信じて継続したい。因みにダヴィンチのモナリザレンブラントの夜警、ヴァチカンのミケランジェロ、そしてウィーンのクリムトは言葉を呑む絶品だった。斜に構えた自分としては王道を行くことに若干の悔しさもある程に。