【知覚の知覚 1/3】シャネルNo.5は教授秘書の香り

海外の家に住んで真っ先に違和感を抱いたのが部屋の香りだった。何も海外に限った話ではなく引越しを経験したことのある人であれば誰しも想像に難くないことと察するが、新しく暮らすこととなる部屋にしばらくの期間感じる如何ともし難いよそよそしさを例外なく現在の家にも感じていた。日本であれば家具を運び込み衣類を運び込み日々食器用洗剤・衣類用洗剤・身体用洗剤を使用すること等で徐々に「自分家の匂い」が染み込み、いつしか自宅の香りは意識に上ることすらなくなるというのが定番の変遷ではなかろうか。一方で海外(少なくとも現在住んでいる自宅)で異なってくるのは家具は全て揃っていたため大物を持ち込むことによる香りの上書きは不可能であること、無駄に床面積が広いためちょっとやそっと衣服を持ち込んだところでその影響力はお風呂の水に醤油を一滴垂らすようなものであること、そして多くの洗剤は現地のものを利用しているため慣れない空間に慣れない香りを上乗せするような日々を送っていること、つまり全部が全部だった。日本での香り生活が和紙のような空間に墨のような画材を用いて演出を試みていたのだとすると、海を渡ってからは突然キャンバスと油絵具を渡されはい好きなもの描いてと言われるような激変ぶりであり何をどこから手をつけて良いのものやらという心境だった。

 

自宅の香りを語る上で外せないのが芳香剤の類だ。自宅の香りを何らか特定のアロマに委ねる人も一定数いるのではと思う。自分も日本に住んでいたときは例に漏れずその人種だった。それどころか恐らく少し例外的ですらあったことは芳香剤の類が好きすぎてアロマオイルは数種類、それに応じてアロマディフューザーも数種類、リードディフューザー(花瓶のようなものに棒が何本かブッ刺さってるやつ)、ルームスプレーと、狭い部屋にこれでもかと香りを発する商品を揃えまくっていたことだ。当然嗅覚刺激の渋滞を起こさぬよう複数を同時に使用することは極力避けていたがそれでも新しく良い香りに出会ってしまうと即購入してしまい、結果的に出番待ちとなる香りの元がずらずらと並ぶという光景が広がっていった。なんなら風呂上がりの香りもその日の気分によって変えたいという願望の元、シャンプー4種類コンディショナー4種類ボディソープ2種類が並ぶという独身一人暮らし男性の家にあるまじきキモい環境が構築されていた。結婚してごっそり持ち込んだ大量のシャンプー類は「無駄」という妻の一言でみるみる1種類に縮小していった。

 

そんな自分だからこそ当然のことながらこの国に来て以降芳香剤を探すことに奔走した。香り屋らしき店には片っ端から足を運び片っ端からテスターを嗅ぎ倒して回った。比較的目ぼしい香りは幾つか購入まで踏み込み実際に自宅で使用してもみた。しかし残念ながらことごとく「自分家の香り」を演出してくれる相棒には遠く及ばなかった。上書きの香り演出はこの国では叶わないと悟り、ただただどこかよそよそしさを感じる家に安住するようになった。日々妻がキッチンに立ち日本食を作ってくれているからか、時間はかかったがいつの日からか「自分家の匂い」がこの家にも定着し今となっては室内の香りは意識の外に追いやられたのがせめてもの救いだ。

 

作秋、こちらに赴任して以降初めて日本に戻る機会があった。ここぞとばかりにお香専門店へ駆け込みお土産となるお香を探した。数ヶ月間溜め込んだ日本への恋しさも相まり当時の自分はアロマとかディフューザーとかスプレーとかいうハイカラな横文字には眼もくれず一目散に「香」へと突撃していった。店舗に入ると何十種類という線香同様の細身の棒がズラリと並んでいたが怯むことなく片っ端から手に取り全て自分の鼻で確かめながら精査していった。その最中、印象的な会話が耳に入って来た。1組のカップルと店員さんのやりとりだった。

「こちらの香りなんかも人気ですよ~」「そうなんですね、ああいい香り~」

ふと自分の手が止まった。自分と彼らの間に綺麗なまでのコントラストを見た。外界からの刺激に対して純粋に自らの五感をはたらかせて知覚することを「感覚の消費」と表現するとしたら、自分がお香店内で、もしくはここまで書いてきたあらゆる嗅覚経験を通して行ってきたことは全てまさに感覚の消費だった。要は自分の嗅覚だけを頼りに好き!好きじゃない!を判断していたのだ。一方で店内で出会ったカップルは自らの嗅覚を頼るのではなく「人気ですよ」という外部因子に判断材料を求め、言うなれば「情報を消費」していた。情報の消費の極めて分かりやすい例としてはシャネルNo.5が適任だろう。純粋にあの香水のあの香りに惹かれて使用している人と、CHANELという名前・No.5の持つ歴史背景に惹かれて使用している人、両者の多寡を語ることは難しいながらも後者が一定数以上存在することは想像に難くない。因みに僕はシャネルNo.5を嗅ぐと教授秘書を思い出す。これも違う形の情報消費だろう。

 

「感覚の消費」と「情報の消費」、決して両者に優劣はない。ただ自分がいま消費しているのは一体どちらなんだと自覚することは一定の価値があるように思う。例えばワインを飲んでいてグラス1杯目は美味しかったはずなのに2杯、3杯と進むにつれて段々と1杯目ほどの美味しさを享受できなくなってくる経験は多くの人がお持ちではないだろうか。時には自分の感覚に素直になることができ「さっき程の感動がないな」と途中で自覚できるかもしれない。しかし時には1杯目で「美味いワインだ」という感想を抱いた時点で無意識下においてそうとレッテルが貼られ、実は舌が受けている感覚は徐々に遷移しているにも関わらずウマいウマいとボトル1本空けるまで至ってしまうかもしれない。最後まで感覚を消費している前者に対して、後者の場合は1杯目だけが感覚、2杯目以降は「美味いというレッテル」つまりは情報を消費していることになる。

 

ああ~ん、書きたいことの半分にも至らなかったので明日に続くしん。