海沿いの我が家

今住んでいる自宅は海と街のちょうど中間地点に位置し、各々5分も歩けば辿り着けてしまう好立地にある。まるで幼女がおままごとで「はいここお家、はいここビーチ、はいここ何でも屋さん」と全コンテンツを窮屈な砂場に詰め込んだかのような、もしくはまるで効率性だけを追求したシムシティの街づくりをそのまま再現したかのような環境で生きている。どうぶつの森シリーズを体験した人であれば自宅から海、自宅からたぬきち商店までの体感距離を想像して頂ければそれがそっくりそのまま現在のワタナベ宅の位置取りであると思って頂いて差し支えない。

 

この環境は当然のことながら海と街の人の往来を加速させる。海には週末ばかりではなく平日の夕方ですら人が押し寄せ大盛況しているし、街には水着姿の人が平然と歩き回っている。個人的には大変喜ばしい環境がここに成立している。

 

海に関して言えば、とにかく綺麗で治安が良い。自宅周辺のビーチはまず瓶飲料の持ち込みが禁止でお酒を飲んでいる人は極めて少なく(そもそも缶ビールは存在しない)、禁止されてはいないはずだがBBQ等をする文化もないようで、かつ街中どこを見渡しても花火を売っている場所を見たことがない=手持ち花火を楽しむ文化もない。日本のビーチで散見されるワタナベ的三大ゴミであるところの「飲料ゴミ・食料ゴミ・花火ゴミ」がそもそも発生し得ない。更に環境美化に拍車をかけるのが超密に設置されたゴミ箱の存在だ。15秒も歩けばいずれかのゴミ箱に辿り着ける程度の間隔で設置されており、かつ意図してか偶発的かはさておき何故か景観を損なうことはない絶妙な存在感を宿しておりやり方が上手い。この地域のビーチゴミ二大巨頭であるところのペットボトル・タバコの吸殻は見事にゴミ箱へと吸い込まれ、かつ定期的に清掃員がゴミ袋を入れ替えに回るのでゴミ箱そのものが溢れていることもまずない。

 

さらにビーチの雰囲気をなんとなく清楚な雰囲気へと導いているのが、人の行為そのものだ。こちらの人がビーチで何をしているかと言えば、焼く・寛ぐ・遊ぶだ。

第一に直射日光の下、亀の甲羅干しよろしくじっと横になって動かない人がわんさかいる。何をするでも誰と話すでもなく、彼らは焼くことに100%身を投じている。黒くなる先にどんな未来を描いているのか、はたまたその真っ只中で思いに耽る新手の瞑想法を実践しているのかは皆目見当がつかないが、兎に角彼らは一心不乱に焼きを入れている。

第二にパラソルやテントを広げて寛ぐ人が多く散見される。日陰では会話をする・本を読む・タバコをふかすといった光景がお馴染みだ。自分も多くの時間はここに分類されることになるが、大きな喧騒もなく周りの会話や波の音が耳を刺激する効果はさながらホワイトノイズ同様の役割を担い、定期的に海やシャワーを頭からかぶることでリフレッシュできる環境は読書を前へ前へと進めることと幾分相性が良い。

第三に豪快に遊んでいる人。マジョリティーはビーチバレー・サッカー・フリスビーだ。例えばビーチバレー1つとっても日本と決定的に異なるのはそのガチ度だ。最もエクストリームな人達で言えば普通にバレーコートを使ってサインを出し合い、三段攻撃を掛け合い、普通にスポーツとしてのバレーを成立させている。そのレベルに至らないまでも、皆一定以上の真剣な眼差しで、そして一定以上の時間を費やし、球体ないしは円盤を追いかけている。面白いのはこの光景は男女を問わず見られることと、おおよその人があくまで素人の姿形をしているという点だ。最も真剣にバレーに打ち込んでいる人でも、男性であればブカブカの海パン、女性であればブリブリのビキニを着用しており、あくまで遊びとしての球技に興じていることが見て取れる。広いビーチを見渡しても、かれこれ10年選手となる競泳用の水着を着用しているのは自分たった1人だけだ。それでも彼らの遊びに対する目は真剣そのものであり、1点の獲得に本気で喜び、そして1時間でも2時間でも没頭して球遊びに興じている。そんな彼らの「メンタルガチ勢」な点は心から見習いたいと思わせる。

 

日本においても焼く・寛ぐ・遊ぶ人は一定数いるが、何より異なるのは酔っ払い・ナンパ等のいわゆる迷惑行為をはたらく人の存在如何だ。日本のビーチで何らかの迷惑を働く人はマイノリティでありつつ一定数存在することは毎夏のようにニュースで「ルールを守らない海水浴客vs監視員」という構図が報道されることからも明らかだ。この原因としては海の開放的な側面と限定的な側面とが考えられる。

 

何と言っても海はタダだ。海はいかなる人をも拒まない、誰しもを受け入れる巨大な器だ。この開放性によってあらゆるタイプの人を招き、それが時にトラブルを招くのは自然の摂理だ。

それと同時に海は限定的でもある。殊関東に絞って言えば、関東圏のとんでもなく巨大な人口に対して海水浴場として受け入れられるビーチには限りがある。日帰りという条件が加わればなおのこと選択肢は絞られてしまう。更には時期的な制約も加わる。関東ビーチの海開きシーズンは7月中旬から8月中旬のせいぜい1ヶ月程度だ。地理的・時間的に制約のある中で人が殺到しカオスが生まれるのは一つの必然と言えよう。そしてこの限定性によって心のタガが幾分かガバガバになることもトラブル要因として乗っかってこよう。女性は海開きに向けていそいそとダイエットを始めるし、男性は突然フンフンと筋トレに息を巻き出す。トレンドの水着を入手しようと画策するし、普段頻繁に使うことのないサングラスやビーサンを新調したりする(偏見)。日本人にとって海に行くという行為は一年間待ち望んだ、そしてわざわざ一定距離を移動して向かう、他でもないハレの場なのだ。日常生活というケからの脱出を可能にする、圧倒的非日常行為なのだ。かつて祭りで乱行・無礼講が認められたように、どこか「今日だけは何をやっても許される」的マインドがビーチで炸裂しているように思う。

 

翻ってこちらの海は同様に開放性を有しているものの、日本と異なるのは一つに人口動態だ。こちらでは組の存在やマイルドヤンキーの存在は確認したことがないし、一方で日本では見られない一定規模のスラムや一定以上規模の敬虔な宗教団体が存在したりもする。海は変わらずオープンであっても、その周辺に生きる人の属性が異なる。

加えてこちらの海の限定性は極めて低い。街に沿うようにしてずーーーーっとビーチが広がっているし、少なくとも半年以上は海に入れる状況にある。海水浴は生活の一部であり、あくまで日常生活の一要素であるという点が、人々のテンションをケの方へと向かわせているのかも知れない。

 

このケな環境そのものが自分にとってはある意味ハレな訳だが、こうして比較してみるにつけ色んな未知を既知とし、自分にとってのマジのハレを削り出していきたいなと思う。