写真で自己啓発

20年来の見る専だったバードウォッチャーワタナベは遂に今年、撮る世界にも足を突っ込んだ。年始には日本で買ったバズーカレンズをえっさほいさと地球の裏側に持ち帰り、夏にはええカメラにも大枚をはたいた。カメラ購入からちょうど1ヶ月が過ぎた今、夢中でシャッターを切りながら得た発見を10個にまとめて自己啓発本的に紹介していきたい。先にネタバラシすると啓発って所詮は啓発なので、ぼんやりと写真集として眺めて頂ければ結構だ。

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初心者なりに頑張ってます

 

  1. マジで準備は命
    まず王道パンチラインから攻めよう。世に出回る自己啓発本の類で100000000000回は言及されているだろう準備の大切さは、野鳥撮影にも当てはまる。例えば見る専だった頃のワタナベは野鳥を観察する上で天気のことなど気にしたこともなかったが(強いて言えば雨を憂うぐらいだった)、写真を撮るとなると話が変わる。太陽に雲ひとつかかっただけで被写体の鮮やかさは見事に失われてしまうため、雲一つない晴天の日を選ばないとそもそも満足いく日にはならない。他にも場所、曜日、時間などいくつかの検討事項があり、それら全てを事前に見極めてようやく戦場に繰り出す。スタートラインまでのアプローチがその後の戦果を左右するのだ。

  2. 臨戦態勢の人だけがチャンスをモノにする
    野鳥撮影は持久戦だ。なんのイベントも生じないのどかな湖畔をぼーっと眺める時間も短くない。ときに自分が撮った写真を眺め、ときにスマホに意識を奪われてしまうこともある。しかしチャンスは突然やってくるのだ。野鳥が突如登場して美しいムーブメントを披露し立ち去って行く一連の流れはまさに秒の世界だ。それを写真に収めれるかどうかの最初の分かれ道は、そもそもカメラを構えていたかスマホを握っていたかというところから始まる。チャンスは誰しも平等に訪れるが、それをモノにできるのは常にファイティングポーズを取っている人だ。

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    着水とか一瞬の勝負


  3. 僕らは認知機能に騙されている
    「今日の月デカい!」とテンション高めにスマホをかざすも、写真で見ると一切の凄みが失われるという経験が皆さんにもおありかと思う。月だけでなく、僕らは常に現実世界を自分の都合に合わせて自在に伸縮させたり切り取ったりしている。飛んでいる鳥もこれに当たる。脳裏には息を飲むほど美しい飛翔姿が焼き付けられたとしても、実際の出来事は1000分の1秒単位であるため、カメラに収めることは極めて難しい。僕らは世界の誇張バージョンを享受しているに過ぎないので、心踊る嬉しいことや沈み込んでしまう悲しいことがあっても、絶対値を割り引いて捉える冷静な自分を同時に飼っておけば現実とのギャップに対処しやすいかもしれない。

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    ヤマセミカワセミが同居する奇跡!と撮るも小さい小さい

  4. 道具が認知機能を助けてもくれる
    道具は認知機能の罠を指摘してくれる以上に僕らを助けてもくれる。「距離は近いけど草が鬱蒼と茂ってよく見えない」という場面に野鳥観察ではよく遭遇する。肉眼での観察は難しくてもカメラを覗いてピントを合わせると途端に周りの雑音が存在感を消し、被写体がありありと切り取られる。生身の肉体だけでは享受し得ない世界がファインダーに映し出されるように、道具を使うことで普段は気付きづらい身の回りの美しさに気付けることもある。

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    こういうのはカメラを覗いて探す

  5. 素材を生かすも殺すも舞台次第
    写真を始めるまでは地味な水鳥よりも色鮮やかで声艶やかな山谷の鳥が好きだった。この価値観は写真を始めて塗り変わった。山谷の鳥は確かに「個」としての美しさがあるが、枝にとまりがちな彼らの背景はどうしても空になることが多く、絵としてどこか生き生きとしない。一方で水鳥は水面や水草を背景に抱えることで「全体」としての美を演出し、胸を打たれる光景に出会うことが出来る。「今までこんな美しさを見せてくれていたのに気付けなくてごめんね」と呟きながら懸命にシャッターを切っている。人の輝きについても似たようなことが言えそうだ。

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    美しいはずのアオショウビン、剥製のように見えてしまう

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    全体美としてのカモ

  6. 好きは伝播する
    水鳥の全体美に気付くと今度は水面の美しさに目が向き、いつしか鳥の反射、あるいは水面を主題にすることも増えた。自分が一足飛びに水の写真を撮りだす世界線はなかっただろうなと考えると、この山谷の鳥から水鳥へ、水鳥から全体美へ、全体美から水面へ、という好きの伝播こそが、自分の生活の豊かさを広げるための適したアプローチなのだろう。

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    反射するサギ

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    反射する草

  7. 競合は第二の目
    湖のほとりに陣を据えると、カバーすべき範囲は目の前180度に渡って広がっている。その全てを同時にケアすることはまずできない。そんなとき頼りになるのが周りのバードウォッチャーたちだ。彼らが突然一方向に向けてバシャバシャやり出したらそれが開戦の狼煙だ。カメラの先には何か重大なことが起こっている。市場を観察するときは自分の目の他に、競合の目も有効に使いたい。

  8. その上で自分の関心に集中する
    ときにフィーバータイムに突入する。あっちでカワセミが狩りに成功し、こっちでイヌが現れ、向こうでサギが喧嘩を始めるというイベントの大渋滞がごく稀に起こる。加えて、自分以外全員がイヌにカメラを向けて熱心にシャッターを切るという状況が訪れる。そんなとき周りに流されてはいけない。胸に手を当て、自分の関心がなんなのか見極め集中する。イヌも好きだが、自分が撮りたいのは鳥だ。選択肢を捨てることになるが、自分の好きを譲ってはいけない。競合の目は市場観察に利用しながらも、彼らに選択を委ねてはならない。自分の行動は自分の心で決めるのだ。

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    一応イヌもちょっと撮った

  9. 結局、愛
    友人のプロカメラマンに自分の拙い写真を見せると「愛がある!俺こんな写真撮れない」と言ってもらえた。そこから愛を意識し始めた。光とか、構図とか、背景とか、なにかと気を配る要素は無数にあるが、結局出来栄えを決めるのは対象への愛だ。自分が愛おしいと思う瞬間をできるだけ削ぎ落とすことなく記録しようと試行錯誤すると、それが後から振り返れば光が重要だったネーとなるって話なだけだ。各論に留まらず、自分の愛を突き詰めることが肝要だ。

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    は〜〜〜愛おしい〜〜〜と心で叫びながら撮ってる

  10. 自己啓発なんて所詮自己啓発
    以上の啓発を並べてみた感想は「自己啓発ってやっぱりあんま意味ないな」ということだ。自分自身今までいくつかの自己啓発に触れてきて、そのたび「なるほど確かに」などと思いはするものの生活に変化が起こるわけでもなく以上終了だった。自己啓発は学びを実際のアクションに落とし込んで初めて意味を発揮するはずだが、アクションに落とし込むためにはその落とし込み先となる「自分の取り組み」がなきゃならない。しかもその取り組みに夢中になっていないと中々学びからアクションへと壁を超えられない。今までの自分はそれだった。
    今回さも知った風に自己啓発パンチラインを並べて判明したのは、そもそも夢中で何かに打ち込んでいる人にとってこれらtipsは当然の事実、今更何をという指摘の列挙に他ならないということだ。つくづく、好きを突き詰めている人は強いなという十人並みの感想に至るワタナベだった。

 

写真、またたまに載せますね。

全裸の時間

全裸で60分、水に浮かんだ。光を断ち、音を断ち、水に浮かんだ。8000円払って、水に浮かんだ。

人呼んでこれをアイソレーションタンクと言う。外界から完全に断絶された水槽内でただただ浮かぶ時間は至高の贅沢だったのでその体験記を残しておきたい。

 

訪れたのは高円寺のマンションの一室にある鍼灸マッサージ治療院。導かれるまま靴を脱いで上がると中には部屋が2つあり、一方は施述で使うベッドやマットが、もう一方にはドカンとテントのような巨大な山が横たわっていた。このテントこそアイソレーションタンクそれなのであった。

 

オーナーから一通りの説明を受けたのち「それではごゆっくりお楽しみください」という一言と共にタンクの部屋で一人となる。どこか日本庭園風に砂利と飛石が敷き詰められひんやりとした床の上でいそいそと服を脱ぎ、シャワー室に入って全身を洗う。生まれたままの姿で飛石を渡って戻り、タンクの前に立つ。室内の電気を全て落とし、完全な暗闇が訪れる。先ほどまで微かに流れていたヒーリングミュージックもいつの間にか消えて室内を静けさが包んでいる。手探りで一歩、一歩とタンクの中に足を入れる。絶妙にコントロールされた水温は冷たくも暖かくもなく自然に肉体を受け入れてくれる。水深20センチほどの硫酸マグネシウム溶液の世界に思い切って体を預けてみると、いとも簡単に体が持ち上げられいよいよ浮遊時間が始まる。

 

やっべ、俺これ全然向いてないかもしれない。

 

最初に抱いた感想だった。タンクに浸かる前、ワタナベはどこか頭の片隅で、自らに魔法が起こるかのような、奇跡的な体験を期待していた。無光無音の環境で水に浮きさえすれば勝手にトランス状態に陥るものだとタカを括っていた。しかし現実世界で生じている現象はただ一人の全裸男性が真っ暗の中で水に浮かんでいる、それだけのことだった。しかも溶液が身体中の小さな傷にしみる。暗い、狭い、痛い、言う人に言わせれば拷問とも取れる三重苦が揃っていた。

参った。60分も耐えれる気がしない。そんな雑念と不安でいっぱいの開始時だったが、60分が終わってみると驚いたことに当初の懸念は嘘のように吹き飛び、それこそ魔法のような時間を楽しんでいる自分がいた。

 

60分の体験は大きく三段階、「体も心も五月蝿い時間」「心が五月蝿い時間」「完全な静寂」に分けることができた。

 

体も心も五月蝿い時間は、とにかく身体中の痛みに耐えた。ちょっとした虫刺され、昨晩掻きむしった膝の裏、身体中のあらゆる小さな傷が溶液に刺激されチクチクと疼く。それに呼応するように心は「あーいてーいてーよー」と喧しく騒ぎ立てる。無視をしようにもその痛みが外界からの唯一の刺激であるため否が応でも意識が向かってしまう。暗闇と、痛みと、私。無音と、痛みと、私。無臭と、痛みと、私。五感を遮られることの威力をこれでもかと思い知る。微かな音でも、匂いでも、何でもいいから、痛み以外に意識を向ける対象をくれと切に願う。

そんなことを思っている内に傷口は麻痺し、痛みが遠のいて行く。これをもって体に静けさが訪れる。

 

次に心だけが一人取り残され、騒ぎ立てる時間がやってくる。「あー俺ただ浮いてるだけだなー特に何も起こらないなー首の角度が違うのかなー体に力入ってるのかなー深呼吸とかした方がいいのかなーなんかコツとかあるのかなー」とひっきりなしに思考が生まれては消えていく。痛みを失った今、本格的に外界からの刺激がゼロとなり、意識は拠り所を失ってソワソワ落ち着かない。何か心地良い刺激はないものかと思わず体をゆっくり左右に揺すってみる。自分を囲む水面に波を感じる。刺激だ!あまりの心地よさにしばらくそのまま体をくねらせ、微かな波に体を晒す状況を自発的に作り出す。刺激だ、刺激だ。波気持ち良い。その動きは次第に形を変え、最後は水槽内の往復運動に至る。万歳の姿勢で頭上の壁をそっと押す。慣性に従う身体はじわじわと足の方へ流れ、つま先が反対の壁に触れる。今度は足元の壁をそっと蹴ってまた頭上に流れ戻る。これはフローティングタンクの正しい使い方ではないだろうなという確信がありながらも、壁との接触という刺激が絶妙に心地よかった。

壁に触れていない時間は宇宙に浮かんでいるようだった。壁を離れてから反対に到るまでのものの3秒ほどの時間は永遠とも思えるほど長く不安だった。視界は動かず、音も生じず、風や波を感じることもない状態では自分がどこを向いて、どこに向かっているか一切の手がかりが無い。壁を離したその瞬間に無の中に放り出され、自分が本当にもう一方の壁に近づいているかも分からなくなる。つま先は永遠に壁に触れることがないかもしれないという不安に襲われる。すると突然無の中から壁が現れ、数平方センチメートルという僅かな接触点が自分を現実世界に引き戻す。惜しむ間も無く壁を蹴り、再び自らを宇宙空間へ投げ出す。

この現実と宇宙の行き来を繰り返すうちに、遂に心は平穏に至った。

 

最後の時間は意識はあるようでないような、起きているようで寝ているような、絶妙な狭間状態だった。この上なく気持ちの良い、いつまでも味わっていたいと思わせる時間だった。後で話を聞いたところ、一つの理想的瞑想状態に近かったらしい。

 

体験は以上だ。沢山あった感想に一つだけ触れるとすれば全裸のパワーは絶大ということだ。思えば現代人は生物として一番の自然体であるはずの全裸状態をほとんど完全に放棄してしまった。あなたが1日を通して全裸でいる時間はどれぐらいだろう。仮にお風呂に入る20分だとしよう。それだけで人生の99%を生物として不自然な状態で生きていることになる。この失われた99%に大事な何かが隠されているのではなかろうか。

是非とも自然体の時間を押し広げたい。もともとワタナベが裸族だったことは関係なく。衣服という文明が人間の感覚を鈍らせている。目の前の自然への意識を取り戻すデジタルデトックスならぬ、自らの体性感覚に意識を取り戻す文明デトックスが必要だ。ワタナベが裸族であることは関係なく。脱げよ人類。ワタナベが裸族であることとは関係なく。

溶けるリアルとバーチャル

「実体験が大事だ!」と奮起したワタナベは久しぶりの日本帰省という好機を逃さなかった。

奮起の経緯については昨日の投稿を参照されたい。

古き良き情景や文化体験に限らず、日本にいるからこそ味わえる楽しみというのは意外と多い。海外に住んでいると尚更ひしひしとこれを感じる。今回の帰省では予てから気になっていたチームラボを訪れた。

 

今更説明の必要もないだろうがチームラボとは日本発の体験型展示施設で、SNSを利用している読者の皆さんならスマホ越しに一度は目にしたことがあるであろうアレだ。精緻な説明は公式ページから引用することとしよう。

 

アートコレクティブ。2001年から活動を開始。集団的創造によって、アート、サイエンス、テクノロジー、デザイン、そして自然界の交差点を模索している、学際的なウルトラテクノロジスト集団。アーティスト、プログラマ、エンジニア、CGアニメーター、数学者、建築家など、様々な分野のスペシャリストから構成されている。 

チームラボは、アートによって、人間と自然、そして自分と世界との新しい関係を模索したいと思っている。デジタルテクノロジーは、物質からアートを解放し、境界を超えることを可能にした。私たちは、自分たちと自然の間に、そして、自分と世界との間に境界はないと考えている。お互いはお互いの中に存在している。全ては、長い長い時の、境界のない生命の連続性の上に危うく奇跡的に存在する。

 

なるほど。やったぜ(?)。所々自分の理解が追いつかない部分があるものの、自ら体験してきたからこそ、ここで言及されている彼らの目指す世界観を少しは捉えることができた気がしているので記録しておきたい。

 

チームラボで得た体験を一言で表すならば「裏切り」だ。裏切りという言葉そのものには多分にネガティブな意味合いが含まれてしまうが、今回の経験は必ずしもマイナス要素だけがあったわけではなく、その裏切りの先に自分自身の価値観のアップデートがあったことも付記したい。

 

何しろ、言葉を選ばずに言ってしまうと、概して作りが「ちゃっちい」のだ。オブジェに触れてみると発泡スチロールのような脆弱そうな素材が使われていたり、映像を目の前にしてみると画質の荒さが目立ったり、気になるところがそこここで散見される。もちろんいくつものプロジェクターを駆使して巨大な映像を切れ目なく投影し続ける技術や、場全体の音・光量・空間的余白の設計など、感心して舌を巻く要素も多分にあった。あったのだが、イチ個人としてイチ作品と対峙したとき、かつて自分がSNSで目にしていた美しい映像と今目の当たりにしている展示とを比較すると、断然前者の方が輝いて見えるように感じた。わざわざ足を運んで得た感想が「SNS越しの世界の方が美しい」だったので、ちょっと肩透かしを食らった気持ちになった。これが自分が感じた「裏切り」だった。

 

多様にあるメディア形態には、それぞれ適切な鑑賞距離があるように思う。「て、て、テレビを見るときは~部屋明るくして離れて見てね」と毎週両さんが歌ったように、テレビは部屋一個分の距離で見るのがちょうど良いし、映画館にはまた映画館の距離がある。翻ってチームラボの作品を純粋に鑑賞しようとすると、その適切な鑑賞距離は「スマホ越し」ではないかと思う。

現場に身を置いて目の前の作品に「ちゃっちい」という感想を抱いていたさなか、せっかくだからと周りの人と同様にスマホカメラをかざした。すると驚いたことに両手に収まるその数インチの画面上にはこの上なく美しい光景が広がっているのだった。あまりの衝撃に目の前の現実世界と画面上の出来事とを何度も何度も見比べた。どれだけ視点を往復させても、やはり現実よりもスマホ上の世界の方が魅力的に映った。きっと現実世界の脆弱そうな素材も荒っぽい画質も、スマホ画面上の出来栄えを完成するために必要十分な要素であり、敢えてそうなっているのだろう。

 

僕らはリアルに生息する生き物だ。技術の発達によって僕らのリアルは少しずつバーチャルに移行されてきたが、それでもバーチャルはリアルを補助する役割、主従関係で言えば主であるリアルを従であるバーチャルが下位互換ながらもどうにか表現するかという構図が長く続いてきた。鳥の写真を撮り、歌を歌うことを娯楽に持つ自分にはこの関係性が尚身に染みている。目の前の美しい光景をそっくりそのまま写真に写すことは極めて難しいし、身も心も震える音をmp3で保存してもどこか物足りなさを感じてしまう。本当の喜びはいつもリアルにあり、バーチャルはあくまでその喜びを断片的に保存・伝達する手段に過ぎなかった。

 

しかしチームラボはこの関係性をひっくり返している。本当の美しさはバーチャル世界に存在し、リアル世界はあくまでバーチャルの美しさを成立させるための手段として位置づけられている。SNS上の喜びがまずあり、そのポジティブな感情を追体験しようと多くの人がリアルに集い一層大きなバーチャルムーブメントを巻き起こしている。平成を生きた自分にとっては青天の霹靂だが、これからの時代は避けられない流れなのだろう。こうして価値観をアップデートできただけ、裏切られ甲斐があった。

 

冒頭の引用、

チームラボは、アートによって、人間と自然、そして自分と世界との新しい関係を模索したいと思っている。

 は、まさにリアルとバーチャルの主従関係の見直しとも言い換えれる。大事なのはあくまで「見直し」であり「入れ替わり」ではないということだ。両者は時と場合によって今まで以上に関係性を柔軟に入れ替え補い合うようになるのだろう。来るべき未来は全てがバーチャル世界に支配されるようなディストピアではなく、これまでに存在しなかったリアルとバーチャルのフェアネスが実現される世界だ。個人的には世界線の広がりを喜ばしく思う。

 

チームラボはまた、分別を持つことの大切さも教えてくれた。今やSNSを開けば「羨ましい光景」は無限に広がっている。一個人がその全部を追うことは到底出来ないし、いちいち気に留めていては自らの人生が疎かになってしまう。大事なのは自分が本当に求め喜ぶものは何なのかを見極め、それ以外には断じて浮き足立たぬよう自らを御することだ。全てのリアルを求めなくとも、ただバーチャルで眺めるだけで十分ということが往々にしてあるだろう。難しいんだけどねー。

たぬきち商店のキャッシュフロー

Niantic社がハリーポッターの新作ゲームをローンチ予定という記事を読みながらふと傍に目をやると、1日を終えようとしている妻がスマホで「どうぶつの森ポケットキャンプ」通称「ポケ森」に熱を入れていた。

 

「多分だけどさ、ポケモンGO始めたらすごいハマると思うよ」

 

テレビゲームは元よりスマホゲームにすらほとんど手を出さず唯一ポケ森だけは「かわいい~かわいい~」と言いながら継続していた妻がポケモンGOにも同様に熱を入れれるだろうという予想は、この時点でまだなんとなくの勘でしかなかった。蓋を開けてみればそのぼんやりとした予想は見事的中することとなり、案の定どころか予想を上回って熱心にポケモンと対峙している妻(と僕)がいた。

 

今になって考えてみれば、ポケ森にハマった妻がポケモンGOにも同様の反応を見せる理由はいくつか挙げられる。愛でる対象となる「かわいい」キャラクターが多数登場すること、アクションゲーム・パズルゲームのように機敏な動きや短時間での判断を求められることがなく自分のペースで進められること。少なくともこの2要素は妻がポケ森とポケモンGOに入れ込んだ共通の理由に当たる。かわいい生き物を眺めることがこの上ない至福であると同時に、俊敏な指先の動きを苦手とする彼女にとって必要不可欠な継続要因だということは、今なら後付け的に言い添えることができる。

 

しかし「ハマると思うよ」と誘いの言葉をかけた当時のワタナベ脳内には、自分の口から発される勧誘を裏付けるような理由は一つも言語化されておらず、本当に「なんとなくそう思う」の域に留まっていた。そもそも何故その直感を得たのか、また、結果的に現実が直感通りになったのかと言えば、おそらく自分が妻・どうぶつの森ポケモンGOのことをいずれも「よく知っていた」からだろう。

 

就寝前にポケ森を起動しては「かわいい~」とつぶやく妻の嗜好を僕は「知っていた」。

毎日とは言わないまでも頻繁にポケ森を起動しては1日の疲労を洗い流すかのような平和世界へと浸る妻をいつも隣で見ていた。ベッドの上でかすかに鳴る緩やかなポケ森BGMはいつしか自分にとっても就寝を告げる引き金としての役割を担い始め、どんなヒーリングミュージックよりも心地よい入眠剤として機能し出した。妻はいつも眠気と愛情の入り混じった幸福そうな笑顔をしていた。

 

どうぶつの森が提供してくれる体験価値についても僕はよく「知っていた」。

さかのぼること約20年前、テレビゲームに対して強い反対派の父をトップに据えたワタナベ家では家庭用ゲームがなかなか導入されず、少年ワタナベは64用どうぶつの森GCどうぶつの森を辛酸を嘗める思いで見送った。遂にDS用「おいでよどうぶつの森」が発売されてからというもの、ワタナベは積年の憧れを全放出する勢いで脱兎の如く森中を東奔西走した。国際捕鯨委員会が「ホゲー」と唸って倒れるほど海から魚介類を総ざらいし、ヨーロッパのヒートウェーブが可愛く映る勢いで森中の果実を骨抜きにし、コスモス・チューリップ・バラなどあらゆる生花に品種改良の手を加え、地形が変形してしまうほど化石を掘り尽くした。売っては買い、買っては売りの連続でたぬきち商店のキャッシュフローは膨れ上がり、役所のペリ子さんは高く積み上がっていくバランスシートに目を丸くした。入れ替わり立ち替わり引越してくる村人たちとの交流は極めてビジネスライクだった一方で、のちに妻が享受したようなのんびりとした世界観を楽しみもした。

 

ポケモンGOとの付き合いはローンチ初日からになる。今でこそ地図ゲームという認識が浸透しているが当初はARスマホゲームという触れ込みで注目が集まっており、半ば仕事的マインドでダウンロードした。何の疑問も抱かず会社スマホにダウンロードしたところIT部から「ゲームのダウンロードが確認されましたがこれ如何に」という旨の御達しがきたのも一夏の思い出だ。今でこそバトルやイベントといった多様な機能が搭載されているポケモンGOだが、当初はもっとシンプルな作りだったため「こんな感じかー」と一通りの感想を抱いたのち1週間で削除してしまった。

 

というわけで自分には妻・どうぶつの森ポケモンGOのいずれに対しても一定の実体験とそれに伴う感想があった(=「知っていた」)。それぞれ別々の場所、別々の時間で得た体験だったものの、それら3つがひょんなきっかけから脳内で繋がり妻と自分のポケGO生活という新たな習慣を生み出した。自分にとっての予想外は、かつてたった1週間で削除したポケモンGOが妻と一緒にプレイすることで何週間も継続できてしまう代物に変貌したという事実だった。

 

ゲームに限らず人生の新たな生活習慣が生まれる化学反応は素敵だと思う。これをもっと作っていきたいと考えたとき、自分に出来る努力は二つありそうだ。一つはなるべく多様で数多くの実体験を積んでおくこと、そしてもう一つはその体験に全神経を傾け、出来る限りの言語化を通して自分の中に体験情報としてストックしておくことだ。沢山インプットして、沢山アウトプット&ストック。そうすればいつか思わぬ点と点が繋がるときが来るだろう。かつて僕がたぬきち商店のキャッシュフローに激流をもたらしたように、今度は自らの実体験にダイナミックな動きを作り出そう。

バブー!

თქვენ ბიჭები, აპირებთ წასვლა პარკში რომ გორაზე? ამიერიდან? ეჰ, ფეხით? ასეთი აბსოლუტური მარცხი. ფერდობზე ძალიან ციცაბო და მე ვერ შეძლო ფეხით ძალიან. იმ დროისთვის ჩამოვალ, მე ვიქნები გმირი. ეს ავტობუსია. კარგია წასვლა ავტობუსი აბსოლუტურად. წაიყვანეთ ქუჩაში მთავარ ქუჩაზე და როგორც კი მიხარია, ავტობუსის გაჩერებაა, აქედან ავტობუსის ნომერი 124 იქ. შემდეგ მე შემიძლია პარკში წასვლა. 124 და 124. გაქვთ თუ არა ავტობუსი? ოჰ ეს. თუ ორჯერ შეეხეთ ამ ორ ადამიანს, შეგიძლიათ გადაიხადოთ ორი ადამიანი. კარგად მაშინ, გაერთეთ.

 

ご安心されたい。文字化けではなくグルジア語だ。今日は一切の語学学習を経ることなく突如としてこのグルグル文字な長文を理解できるようになってしまったアリスも顔負けの僕と妻 イン ワンダーランドな話を紹介したい。何を隠そうこれを読んでいる日本語話者の皆さんもアリスたる素質を等しくお持ちなのであとはワンダーランドに身を投じるばかりだということも念頭に置かれ読み進まれたい。久しぶりのブログ更新なので定型の語調を忘れてしまったってばよ。トリマメンゴメンゴ。

 

地球最後の秘境コーカサスグルジアに行ってきたのはもう3週間ほど前のことになる。豊かな自然、美味すぎるメシ、そして爆安な物価のために過去この地を訪れた人の口からはポジキャンばかりがダダ漏れになることで名高い。ワタナベ夫婦の体験した時間もその例外ではなく、4日間の滞在期間中に口をつく語彙といえば「綺麗!」「美味い!」「安い!」の3単語に絞られ、あからさまな幼児退行不可避な環境だったことは疑う余地もない。そりゃ夕食にビールを飲んで超がつく美味いものを満腹まで食べた末のお会計が2人で400円だった日には赤ちゃん返りが極まるところまで極まって思わず「バブー!」と叫んでしまう気持ちもお分かり頂けますでしょ?とにかくびっくりしたんでちゅ。

 

しかしながら敢えてグルジアという国のチャレンジングな点に言及するのであればまず挙げられるのが言語だ。英語話者を見つけるのは極めて至難の業、いわんや日本語をやな状況下で、耳にはグルジア後とロシア語ばかりが滑り込んでくる。看板や道路標識の大部分はグルジア語一色に染まり、どこもかしこもグルングルンのハート形や扇子型の羅列となっている。一切の責任は私めの低教養にあるということを先んじてお断りしてから申し上げると、ただでさえ幼児退行したワタナベの目には2文字に1回おしりを出したクレヨンしんちゃんが登場しているように映り、脳内には「ブリブリ~ブリブリ~」という愉快な声ばかりが反響するために一切の内容を読み取ろうとする努力すら困難であった。ちゃんとあの時お母さんの言うことを聞いてクレヨンしんちゃんを控えていればという後悔が頭をよぎったが、だとしても2文字に1回ハートが自動知覚されるために脳内では「うふん♡うん♡」みたいな音が響き渡り、いずれにせよ雑念を振り払う難易度は高そうだ。

 

流石にホテルだったら英語も通じるだろうとタカを括って乗り込んだもののそこで我々の甘さが露呈した。安宿を選んだこともあってか一切の英語が通じない。ステラおばさんのような気の良さそうなママオーナーが臆することなく発する台詞は容赦のないグルジア語の洪水で、唯一不純物のように混ざって出た英単語は「マネー」だった。

ホテルに到着してからひと段落し、さて街に繰り出そうと外へ踏み出した僕らを引き止めてステラさんが朗々と述べたのが冒頭のグルグル文章だった。推測するに意味はこうだ。

 

あなた達、あの丘の上の公園へ行くつもりなの?今から?え、歩いて?そんなの絶対ダメよ。斜面が急すぎてとても歩いて行けたものじゃないわ。到着する頃にはヘロヘロになっちゃうわよ。バスよ。絶対バスを使って行くのが良いわ。ここの通りを大通りまで行って左に折れたらすぐバス停があるから、そこで124番のバスに乗りなさい。そしたら公園まで一本で行けるから。124よ124。バスカードは持ってる?ああそれよそれ。その1枚を2回タッチすれば2人分の料金を払えるから大丈夫。それじゃ楽しんでらっしゃ~い。

 

この文章をそのままGoogle翻訳に突っ込むと冒頭のグルグルが吐き出される。

この一呼吸で言い放たれたかにも思えるほどのマシンガンガイダンスを前に、夫婦二人で愕然とした。それは疑いの余地なく隅から隅までグルジア語だった。一つも不純物のない、一切の例外なく知らない響きの羅列だった。なのに二人して何の不自由なく、ステラさんの言わんとすることを理解することができた。ステラさんもこっちの意図を難なく汲み取ることができていた。かくして日本人同士のような流暢さで意思疎通が完結し、僕ら二人はヘロヘロになることなく丘の上の公園にたどり着くことができた。ステラおばさんのワンダーランドへようこそ。

 

ステラマジックの中身は豊富な意思伝達手段だった。表情、身振り、手書き文字、あらゆる意思疎通媒体を駆使した結果言葉は必要不可欠なものではなくなり、そこには今まで体験したことのない不思議なコミュニケーションが構築された。言葉に頼りがちな僕らに対してステラさんは「あなたの顔、体、身の回りにあるもの全てがメディアになるのよ。せっかくなんだから活用してみたら?」と示してくれているようにすら思えた。

指をさしたりジェスチャーで現すことで「丘の上に今から行きたいの?」と問いかけ、

顔を歪ませながら体全体を使うことで「歩いていくにはキツすぎるわ」とアドバイスし、

その辺で埃を被っていた車の表面を指でなぞって「124」と乗るべきバスを示してくれ、

とにかく一つ一つが何不自由ないメッセージングになっていた。人類すげーと思う瞬間だった。

 

語学、特に英語学習をしようという流れ、もしくは日本人は英語が苦手だという論調が少なからずあるように思うが、ステラさんはここに問いを投げかける。「何のための」学習なのか、日本人は本当に「英語が」苦手なのか。

イッテQの出川氏が象徴的だ。英語を話せない出川とペラペラ帰国子女がアメリカの街に放り出され、ヨーイドンで道ゆく人に質問しながらお題の答えを見つけるという課題で往々にして早く正解にたどり着くのは出川の方だ。語学堪能が必ずしもコミュニケーションの肝となる訳ではなく、時に表情や仕草の方が重要になることもある。要は、そのコミュニケーションの目的は何で、その目的を達成するために必要な要素は何なのかという話だ。

 

ステラおばさんが問題なく宿泊客の面倒を見、観光案内を全うしていることを踏まえると今の所英語の習得はさして事を急がない。彼女の伝えようという気持ちと、その気持ちを表出させる多様な表現方法が全てをカバーしている。最悪彼女の口から出ている単語が全て「バブー!」だとしても言わんとすることは理解できる気がする。

コミュニケーションの目的に立ち戻って考えると、義務教育で一通りの英語学習に触れている多くの日本人にとって本当に必要なのは再度の英語教育ではなく意思疎通に対しての心構えの指導かもしれない。

今「できない」と思っていることは、その先の目的を捉え直してみれば実は別の道が伸びていて、意識の変化一つで「できる」ことになるのかもしれない。

 

バブー!(グルジアまじおすすめです。)

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ゲームオブスローンズ全話一気見したので感想

会社から帰宅し夕ご飯を済ませるや否やソファに倒れ込んでリモコンに手を伸ばす。テレビ画面上ではバッサバッサと人が切り倒され、妻は僕の背中にしがみ付いて「キャーッ!怖いよーッ!」と叫んでいる。この微笑ましくもおっかない光景がここ20日間の我が家の日常だった。

 

世界的なメガヒットとなったゲームオブスローンズ(以下GOT)を見始めた理由の一つは「世界的な流行を知っておきたい」というクソ真面目でビジネスライクなものだった。ここでの流行とはファッショントレンドのように毎年・毎シーズン変貌を遂げるような単発的・刹那的なものではない。GOTの放送スタートが2011年であることを考えると今回の流行はもう少し時間軸が長く、人の(少なくとも現代人の)根本部分に横たわるある種の普遍性を反映しているはずだ。その普遍性が何なのか、それがどういう形で流行として露呈しているのかを確かめたかった。というそれっぽい理由を今適当にでっち上げているのはキミとボクだけの秘密だ。

 

※以降ネタバレ含みます。

 

アドレナリンに飼われた現代人

Netflix and chillという言い回しが象徴するように、現代の、特に若者は、静かな家の中で明かりを落とし毛布にくるまったままソファに沈んでNetflixをぼんやりと眺めることで幸せをじんわりと噛みしめるのが好きな動物なのだと思っていた。これからの時代、僕たちの脳内ではセロトニンとかオキシトシンとか、所謂幸せホルモンが台頭するのだろうと何となく思っていた。

しかしどうやら必ずしもそうではなさそうだ。

何しろGOTを見ていたらchillとか言っている暇はない。飛び散る血しぶき、鳴り響く雄叫び、悲鳴、グロい効果音、生首、拷問、死体。幸せホルモンが分泌される余地は限りなくゼロに等しく、体内を駆け巡る物質はひたすらにアドレナリン。ショッキングな暴力シーンを見てはアドレナリンさんコンニチハ。悪者が成敗されてスッキリしてはアドレナリンさんコンニチハ。毎話毎話所狭しと仕込まれているアドレナリンスイッチによって体と頭の興奮状態は息をつく暇もない。

 

Netflix and chillというスラングは当初こそ文字通り「ネフリ見ながらソファに沈もうぜ」の意味で使われていたが、ある時点からは性行為への婉曲的な誘い文句としてアメリカの若者に浸透した。個人的な印象として、ここにも平和的・静寂感といったイメージを現代人に抱いていた。最近の若者はド派手な感情の起伏を伴うことなく日常生活の延長線上に自然と位置付けられたピースフルな性行為を好むのだろうなと想像していた。

しかしGOTはまたもや正反対の人のサガを露わにしている。情熱的なセックス、開放的な娼館、乱暴なレイプ、画面上の性描写は毎話荒々しく、やはりアドレナリンドリブンな人間模様が描かれている。見ているこっちもソファに沈む時間よりもそわそわしたり飛び上がる時間の方が多くなる。

 

蓋を開けてみると、チルってる人達がこぞって夢中になっているのはアドレナリンがビンビンと分泌されるような作品で、ここ数年の世界的な流行はアドレナリンに支配された人間の構図を表しているように映った。ハレとケのバランスをとって生きている人間にとって、このトレンドは僕たちの日常生活がより平和に・クリーンになっているからこそ、非日常性・祭り性への需要が高まっていることの表れなのかもしれない。

 

秀逸なアドレナリン噴出装置GOT

GOTがアドレナリン噴出装置として長年機能し続けた理由は、一つに毎話クライマックス感があるからだろう。毎話クライマックス感があるとはどういうことか。だいたい毎話主要キャラが死ぬということだ。主人公なんだろうな、ラスボスなんだろうな、と思っていた人が序盤からバッサバッサ殺されていく。殺した張本人が本当の主人公なんだろうな、ラスボスなんだろうな、と思っていた彼らすら次のエピソードで殺される。そんなペースで殺戮が続いても物語が成立し続けている。つまり主人公級のスポットライトを当てられた登場人物が無数におり、チョイ役まで含めると星の数ほどに上る相関図が実現している。僕は結局最後まで「この人誰だっけ?」という鑑賞中の妻への質問が途絶えなかった。

GOTがある種の賭けに出たであろう点は、序盤にほぼ全登場人物を出し切ったことだ。少年ジャンプ的な後出しジャンケンの構図はほとんどなく、一旦手札を全部見せ、絶妙なバランスで全キャラにスポットライトを当てていき、順番に作品から退場させる。桃白白もピッコロもベジータフリーザもセルもブーも序盤に全員登場する。ヤムチャクリリン亀仙人も悟飯も神様も界王様も全部最初から登場している。そして一話ごとに一人また一人と倒されていく。しかもあろうことか孫悟空が最初に死ぬ。めっちゃショック。どうやって収拾つけるのか見届けないと。次にまた思ってもなかった主要キャラが死ぬ。めっちゃショック。どうやって収拾つけるのか見届けないと。以降繰り返し。

ピッコロを倒したタイミングやフリーザを倒したタイミングなど要所でピリオドを迎える少年ジャンプ的な構造とは違い、GOTは中間チェックポイントを与えることなく最後までマラソンを続けさせる。これで「ワンピースは空島編までなら読んだことあるよ」という状況が生じ難くなっている。一方でこの構図は特に序盤、あまりの登場人物の多さに物語が複雑になりすぎ、ある程度の鑑賞者離れは避けられないというリスクも孕む。GOTが賭けに勝ったというのは言い換えると、絶妙なタイミングにアドレナリンスポット(=誰か死ぬ)を設置することで鑑賞者を繋ぎ止め続け、膨大な相関図が孕む複雑さを乗り越えさせることに成功したということだ。ただ通り一遍にアドレナリンドバドバーな仕掛けを置くのではなく、絶妙な配置計算があったが故に一大ムーブメントに繋がったのだろう。

 

あなたとわたしは別の人間

「人間みんな違う個体。100%同じ感性・考えを持った人なんていない」というのが見終わった時の一つの感想だった。GOTでは「昨日の味方は今日の敵」構造が頻出する。一大勢力Aと一大勢力Bの対立構造でAがBを滅ぼした際、次に起こるのはA内の対立だ。ある瞬間まで「打倒B!」というマニュフェストの下で一致団結していた団体は、共通敵を失った途端それまで気付かなかった「昨日の味方」との意見の食い違いに目が向くようになり、終いには二分してしまう。しかもこの構造はマトリョーシカのように連綿と列なり、最後には個人対個人にまで枝分かれしうる。

別の個体なのだから、誰しも意見が異なる部分は必ず存在する。共通項を見出して意気投合することはもちろん素敵なことだが、それと同様に相違点にも意識を向け、お互いに理解し合っている状態こそが長く人間関係を保つ上では本当に健全な状態と言えるのではないだろうか。長続きしないカップルが往々にして迎える局面もこれと同じだ。最初は相手の「好きな部分」ばかりが目に入り爆発的な幸福を享受するものの、徐々に落ち着きを得るにつれ相手の「認め難い部分」が目に付くようになり、終いにはそれを見過ごせず破局に至る。あなたとわたしは別の人間だという前提に立って、初めから相違点を見出し整理しておくことが、人間関係を長続きさせるコツなのだろう。

 

非を認め継続する美しさ

GOTの爽快な点の一つに登場人物が「失敗を認める」ことがある。人がバッサバッサと殺されていくほど作品内の関係者は重要な意思決定の局面に晒される。決断内容は時に理にかなっているように見えても必ずしも良い結果に繋がるわけではなく、残念ながら重大な失敗に直結し激しく追及されるシーンもある。そんな時ヒール役は決して己を曲げずヒール性を増し、そうでない登場人物はきちんと非を認め反省に繋げる。特に後者は見ていて気持ちがよく、勇気を与えてくれる。ある意思決定が過ちかどうかは結果を待たないと分からない。熟考の末の結果が過ちかどうかはあくまで結果論なのであれば、何度失敗しても成功するまで反省を繰り返して挑戦し続けさえすれば失敗はあくまで成功のための肥やしとなり、失敗としては残らない。最近よく耳にする成功・失敗論ではあるが、GOTではそれが物語として美しく表現されていた。諦めたらそこで試合終了ですね安西先生

 

紡げ己のストーリー

GOT上最も頭のキレる役ティリオンは「人々を団結させるものとは?軍?金?旗? 物語だ。この世で物語以上強力なものはない」と言った。心底納得のいく主張だった。人の団結どころか、自分自身を納得させ前進させるのもまた物語だろう。物語とは過去の出来事や自分の身の回りの事象から意味を見出し、学びを得ることで生まれる。物語とは次なる行動に繋げるための、自分に自信を取り戻すための、未来に希望を抱くための武器となる。どうせだったら70時間を費やしたGOTからもなるべく自分の物語に還元しようと今回はいくつか発見を記した。

どうか皆さんの物語も是非聴かせてください。そして共通点も相違点も見出して、僕と仲良くしてください。

焦らしプレイ歴27年

「今までどうやって生きてきたの?」

「人生の半分損してる」

「お母さんちゃんとした人だったんだね」

カップラーメンを食べたことないという発言に対して返ってきたリアクションは様々であったが、共通していたのはその事実を珍しがる姿勢だった。自分が生まれてこのかたカップラーメンを口にすることなく過ごすのに、ある時点までは何の努力も必要なかったし違和感を覚えることもなかった。単に実家にはカップラーメンが置いてなかったし(恵まれたことに)幼少期は常に親か近くに住む祖父母がご飯を用意してくれた。

中学生の頃、今となってはどんな会話内容だったかすら覚えていないが、友達とカップラーメンの話になった。何の気なしに「俺カップラーメン人生で一回も食べたことないんだよねー」と言うとその場にいた5,6人の思春期真っ只中の少年たちが一堂にええ~~~と大声をあげ、矢継ぎ早に「あり得ない」「俺週3で食べてる」「カップヌードルも!?チキンラーメンも!?」などと突っ込みの応酬を食らわしてきた。冗談抜きでカップラーメンに関して知識も経験もゼロに等しかったワタナベ少年はカップラーメンの入り口はカップヌードルチキンラーメンなのかあ…などと想像を膨らませながら自分の希少性を初めて自覚し、ここから意識的にカップラーメンの禁を発動した。

同じことをやっていても、勝負を意識し始めた途端に緊張が増す・精神的負荷がかかるという状況は漫画でもよくある描写だ。弱虫ペダルでは元々は鼻歌交じりに20%の傾斜を漕ぎ上がっていた坂道君も今泉君との勝負となった途端に同じ道で歯を食いしばり心が折れかけているし、アカギのウラベ戦では50万円と思っていた勝負の内容が本当は3200万円と分かった途端にオサムの麻雀内容は人が変わったように豹変してしまう。

そして今回、ワタナベにとってのカップラーメンも同様の手のひら返しを見せてきた。それまで辛いとか努力を要するとか以前に存在すら意識に上らなかったカップラーメンであったが、一度それを遠ざけようと決意するや否やとんでもない存在感を帯びてことあるごとに脳裏に登場し誘惑するのであった。

思えば中・高・大学生の生活というのは人生でも最も容易にカップラーメンに囲まれうる時期だった。部活帰り、疲れて寄るコンビニでカップラーメン。予備校の昼休み、休憩室に充満するカップラーメン臭。授業が終わってサークルが始まるまでの時間、ちょっと小腹を満たすためにカップラーメン。カップラーメンはいつでもどこでも学生の味方だった。同じ100円とちょっとの支出を投じながら、片や自分はオニギリ一つ、片や目の前の友達は強烈なスープの香りを漂わせながらズルズルと麺を啜りあげ、おまけにスープを飲み干して体を温めていた。

この独特な香りの向こう側にはどんな味が待っているんだろう。この3分という長く短い冬眠を終えた先にはどんな春の訪れを感じることができるんだろう。いいなあカップラーメン。いいなあカップラーメン。

ときに何事もなく、ときに絶大な痛みを伴ってカップラーメンを禁止する日々が27年間続いた。異性との交わりを持たぬまま30年の月日を過ごすと晴れて魔法使いに昇進できるという言説があるが、自分もカップラーメンウィザードの称号が目の前に迫ってきた。現代の魔法使いことOchiai氏と並び、現代カップラーメン界の魔法使いWatanabeを自称できる日も遠くないと心が躍動しかけていた。

そんなさなか、27年の時を経てカップラーメンの禁を解いた。

去年の年末、日本へ帰国する道中のことだった。初めて韓国経由のフライトを利用した自分は幸運にも空港ラウンジを利用する権利を得、意気揚々と仁川空港の整えられた空間へと足を運んだ。転機はここで訪れた。ラウンジ内へ足を踏み込むや否やそこはかとないラーメンの香りが充満しており、よく見ると2人に1人の割合(ワタナベバイアス込)で真っ赤なパッケージのカップを手にした人がそこら中に溢れていた。ふとブッフェコーナーに目をやるとそこには辛ラーメンカップがピラミッドのように高々と積み上げられ、ワタナベは驚嘆とともに口を半開きにしながら見上げる格好となった。この時小さく心が呟いた。今かもしれない。

結果的にこの仁川空港の辛ラーメンで見事カップラーメン童貞を捨てることになった。特別な準備もお膳立てもないまま日常生活に大きな凹凸をもたらさない形で初めての一杯を迎えられたことは嬉しく思う。長く我慢を貫きつつも、初めての一杯を盛大に啜りたくないというのが斜に構えたワタナベの思想だった。24時間テレビの感動モノを揶揄するSNS上の声に似ているが、我が人生におけるカップラーメンも、耐えて、耐えて、耐えて、はい!!ついに!!!ようやく!!!!カップラーメン食べるときです!!!!!おめでとう~~~~~パチパチ!!好きなだけ感動していいですよ!!!!感想は???どう???嬉しい???よかったね~~~~~!!!!的な人工的な設定はどこかサムくどうしても避けたかった。そんなカップラーメン実行委員会には出番を与えることなく、何気ない日常の中で何気なくテープを切り、静かにその瞬間を五感と心で味わいたかった。結果上手くいった。僕の中の実行委員会は仁川空港のラウンジに入る頃から「あれ?これヤバい流れじゃね?」と察し始め、そびえ立つ辛ラーメンを前にしてようやく「ちょっと!急いで!始まっちゃう!!」と慌て出し、僕が27年の沈黙を破って最初の一口をすすった頃にはまだTSUTAYAサライのCDを借りたところだっただろう。祭り性を完全に置き去りにした、程よい節目だった。

辛ラーメンを口にしてから、徐々に他のカップラーメンにも手を伸ばしつつある。特に初めてのカップヌードルは衝撃もひとしおだった。27年間の焦らしプレイを経て口にした一杯は含蓄に溢れ、思い出が走馬灯のように脳裏を駆け巡った。地元のローソンの駐車場で友達が美味しそうにすするあの匂い、東進予備校の休憩室に充満していたあの匂い、学食の残り汁コーナーに次々と投げ入れられていったあの匂い、全ての思い出が口の中に広がっていた。カップヌードルの味は、思い出の香りがそのまま凝縮され舌の上に広がるようなシロモノだった。

3個目、4個目とカップラーメン経験を重ねるにつれ、その感動も薄れつつあることを実感している。焦らしプレイ直後の感度がいかにビンビンであるか、そして努めて意識を向けないと僕たちの五感はいかに怠惰たり得るか、大変深く理解できる27年の末の実験結果だった。