巨大な3cm

幼少期から枕を使うことなく寝てきた。しばしば首を寝違えていた幼いワタナベ少年はある日接骨院で枕を使わないことをおすすめされ、ダメもとで床に首を据えて以降ぱったり首周りを痛めることがなくなったことがきっかけだった。低反発枕、超高級枕、未知との遭遇場面ではひとまず体験せずにはいられない性分なのでことある毎にあらゆる軟体物に頭を置いてみるものの、悉く首筋が悲鳴を上げるので結局床に舞い戻った。

 

年末ということで日本に戻ってきたが帰路約10時間のフライトで出会った座席が親切にもてっぺんに凸部を備えたフォルムをしていた。自分の軟弱さに半ば呆れ笑いを抑えられず、ここでそれを公開することに躊躇いがないわけでもないが、たった3cmの段差を設けるだけで人はここまで活力を奪われてしまうものかと感心さえする程にそれは絶望的な障害だった。傍から見れば一本の棒が横たわっているに過ぎないであろう僕の寝姿は、当人の意識中ではくの字に折り曲げられていると錯覚するほどに猛烈な窮屈さを体感していた。人は1cmの突起があれば足の小指をぶつけて容易に悶絶へと導かれるし、2cmもサイズが違えば造作もなく靴ずれを起こしQOLをだだ下げられるし、3cmの段差によってワタナベを瀕死状態に至らしめることはクロちゃんをドッキリに引っ掛けることよりも容易い。日常生活において何の不自由もなく過ごせていることがいかに恵まれたことなのか、自身の周辺に1cmの突起も2cmのずれも3cmの段差もないことがどれだけ喜ぶべき事態なのか、よく噛みしめ感謝を重ねられる年末だしん。

 

2か国の行き来が続けば続くほどそれぞれの国が持つ良い面とそうでない面がまざまざと浮き上がってくる。日本は何かにつけて利便性が半端ではない。コンビニを始めとして電気屋、デパート、ユニクロ、100均に行けばジャンルを問わず大概の高品質な商品を手に入れることができる。それ以前にこのご時世amazonでポチればだいたいの商品が翌日には自宅へ届く。電車は定刻通りに来てくれるし都市圏に限れば張り巡らされた鉄道網で移動のほとんどが完結してしまう。隅々までルール・システムが整備され、その大部分を多くの人が遵守しているが故の秩序と、それに付随する美しさがある。一年前は多かれ少なかれ当然のこととして一身に享受していたこれら恩恵も、今となっては折に触れて恵まれた環境だなーという反芻を避けられない。

かたや第二の故郷となりつつあるイスラエルに目を向けると状況は全く異なる。世界でも有数の技術開発国とあっても日常生活レベルではその有難みを全く感じられないという場面は少なくない。ちょっとあれが必要だとなったとき、まずそれを買う場所がない。先日イヤフォンを購入する必要に迫られ気付いたのだが、この国に家電量販店のような店舗は存在しない。あったとしてもえらく品揃えの偏ったコンビニサイズの電気屋か、キオスクのように街中に突如として現れる狭く薄暗い店内の携帯屋ぐらいだ。今回は地元の人に教えられ後者タイプに突撃することとなった。濁ったガラス扉を押して入店し、暗闇の奥にたたずむ中年男性に要件を伝える。彼はその場から一歩も動かず周辺の引き出しを漁り出し、次々とビニール袋に入った古めかしいイヤフォンたちを取り出してはカウンターに並べる。イスラエルにも釜ジイいるんだ…とあっけに取られるワタナベをよそに「さあ好きなやつを選らべ」と一言。クオリティを求めないため一番安いのを購入したものの日本円にして1000円、後で確認した音質は日本の100均イヤフォンの100分の1。仕方ないここはトンネルの向こう側の世界なんだもの、と自分に言い聞かせつつも財布の紐は固くなる一方だ。なお輪をかけて厄介なのが物流の脆弱性で、amazonを始めあらゆる有形資産ネットショッピングサービスは無力に等しい。半年前日本から送られた荷物は地球のどこかで蒸発してしまったし、3カ月前に米amazonで注文したOculus Goは未だに中東のどこかを彷徨っている。日本の物価が圧倒的に安いことも加わり、あらゆる必需品は日本で購入し自ら持ち込むことにしている。

 

一方でこの小さな中東国家も悪いところばかりではない。日本のようにルールやシステムが整備されきっていないが故に日常生活のいたるところで交渉・相談の余地が発生し、これが時に居心地の良さを提供してくれる。日本人マインドからすると見ず知らずの人といきなり会話・交渉を始めることにいささかの抵抗感もあるが、慣れてしまえばこちらの方が性に合っているという人もいようかと思う。自分は幸いにもこの文化が好きだった。理由は単純でこちらの方がより人の情を感じることができるからだ。

 

この年末の帰省、日本に着くや否や早速トラブルに見舞われることがあったが、既に脳内の半分を中東マインドに侵されている自分は早速担当者のもとに詰め寄り良い落としどころを探ろうとした。

 

「こういう規則となっておりまして…」

「分かっています。ですけどこの部分は実質グレーで相談の余地がありますよね」

「いえ、あの、こういう規則となっておりまして…」

 

以降繰り返し。対峙した担当者はマニュアル文を読み上げる蓄音機の役割を十分に全うし、明日にでもペッパー君にその役を譲る準備はできていますと暗に叫んでいた。ワタナベの問いかけは無慈悲にもただの音信号として周辺の空気を震わせては霧散していった。規則を作り遵守することの価値を否定するつもりは一切ないが、強固なシステムに頼りすぎてしまったために自分で考え伝える能力がこの国では著しく退化しているのではないかという懸念が過るほど今の自分には印象的な出来事だった。思い返せば日本の公の場で人と会話するとき、自分が話しかけている相手は「人」ではなく、その裏に潜む「規則」だと感じる場面が少なからずあった。日本から離れて生活した経験を持ったからこそ、日本で当たり前とされ何の違和感もなく受け入れられている習慣の窮屈さに気付くことが出来た。また中東で是とされる交渉文化の人間らしさ、その温かみを改めて噛み締めることが出来た。

 

イスラエルの弱々しい物流網を「そういうものだから」と受け入れると同様に日本の風習を受け入れることは困難ではないが、この国にも「3cmの窮屈さ」が存在することに幸か不幸か気付いてしまった。その3cmは日常生活において無視しうるごく些細な差異ながら、一度取っ払ってしまった際の心地良さは筆舌に尽くし難く大きなインパクトを孕んでいた。ぶっちゃけ現時点で日本は食事・買い物のために定期的に帰って来るぐらいが程よく、その他生活はイスラエルの方が心地よい気さえする。

 

2019年は引き続き自分の知らない・気付いていない価値観に多く触れ、その中から自分の「好き」をより鮮明に炙り出したい。そして今以上に「生きたい」と思う人生を生きれるようになりたい。一足先にあけおめことよろ。