【知覚の知覚 3/3】3秒前まで君に夢中だった

昨日昨日の続きですが一応読み切りっぽくなってます)

 

老山白檀。仄かに甘さを含む優しい香りはそれでいて凛と芯の通った強さすら併せ持ち、その馥郁とした香煙は聞く人に海底へと導くような寛ぎをもたらすと同時に明朗快活な思考を持つことをも許してくれる。白檀そのものが香木として名高く、インドでは古代から高貴な仏教儀式用品として利用されてきたが、中でも老山白檀はインドのマイソール地方でのみ産出される最高品質の白檀として名高い。

 

らしい。

 

さもわけ知り顔で「名高い。(キリッ)(キマったぜ)」などと大見得を切ってみたものの全くもってたった今ググって出てきた産物だ。僕の仕事といえばグーグルから吐き出された情報を適当な日本語で着飾っただけに過ぎないことを告白したい。

 

さてこの老山白檀が現在我が家で絶賛大活躍中だ。一昨日の記事で途中まで触れたが作秋に日本へと帰省したワタナベはお香屋で片っ端から試用品を嗅ぎ倒した。数十種類の線香の中から唯一雷に撃たれたような衝撃を受けた一本があった。くすんだ灰色をしたそのお香は「28番」という仮初めの名前しか持っておらず、そのゼッケンを頼りに別の棚へと行くと待ち受けていたのが老山白檀だった。他大勢の線香たちがプラスチックケースに収納されている中なんと老山白檀パイセンだけは仰々しくも木箱に収められており棚の最高部に燦然と飾られていた。その時点でお察しという感じだったが当然のことながらその他お香のウン倍という値が付けられており香ラーワタナベはただただ「やったぜ俺のセンス最高級ー」と思うしかなかった。なおもしニッチで安いものだった場合「やったぜ俺の好み人と被らず安あがりー」などと思ったことだろう。

 

背に腹は変えられん。唯一の好みだったのだ。それが老山白檀だろうと老人白髪だろうと好いてしまったのであれば引き返す道はない。「あ、でもこっちの赤い線香もカワイイー」と相談しているカップルの会話を聞きなるほど嗅覚の店で視覚の話題とは興味深いなどと考えながら迷いなく店員さんに一言「すみません、このローザンビャクダン…?とにかくくすんだ灰色のやつください」。僕にはくすんだ灰色もこの上なく輝いて見えるぞ安心しろ君もカワイイカワイイと手に握る木箱に囁きかけながら地球の反対側へと持ち帰りようやく嗅覚砂漠だった我が家に待望の馥郁環境が整った。

 

話は変わり昨日の記事でも触れた通り最近瞑想に習慣化の兆しが見えてきている。少なくとも三日坊主は脱却しワタナベ史上最長の瞑想歴レコードを記録している。そんな中ある日瞑想中の脳裏にある思考がよぎった。

 

「あ~ん、お香を焚きながら瞑想してみたいしん」

 

それまでは仕事の合間にオフィスの片隅で瞑想を行うのみだったナベちゃんは思い立ったが吉日とばかりに同日夕方MUSEを家へと持ち帰り早速お香に火を灯して瞑想を試した。予想では老山白檀パイセンのパワーによって意識がブワ~~~っと香りに一点集中し、その他の雑念がグオ~~~っと遠のき、結果的に瞑想クオリティがガア~~~っと上がるのではないかと踏んでいた。蓋を開けてみると面白い裏切りがあった。呼吸に意識を向けるのと同様に香りに意識を向け続けることもまた極めて難しいことだったのだ。

 

元々嗅覚疲労の存在は知っていた。同じ匂いに晒され続けると感覚がマヒして匂いが気にならなくなってくるアレだ。自宅で鍋や焼肉をやって一旦トイレに行って戻ってくると唐突に室内にその香りが充満していることに気付けるアレだ。しかし今回猛烈に僕の意識下で頭を擡げたのは嗅覚疲労ではなく別の認知機能に関する発見だった。どうやらヒトは(少なくともワタナベは)例え良い匂いであろうともその心地よさを享受できるのはせいぜい数秒が関の山で、次の瞬間には意識は別の何かに向けられてしまうようだ。美人は三日で飽きるというが、もしかしたら僕らの脳みそは三日どころか三秒で飽きている節すら疑わねばならなくなってきた。これは自分にとって衝撃的であると同時に過去の出来事を振り返ると大変納得感の抱ける事実でもあった。

 

お香に限らずアロマディフューザー、ボディクリーム、香水などと嗅覚を刺激するものであれば片っ端から興味のあったワタナベは毎日のように喜んで何らかの香りを身に纏い、その都度香りに触れるたび意識がブワ~~~っとハイになっていた。ここでは一昨日の記事で言うところの「感覚の消費」そのものを実践していた。しかし今回の経験を踏まえてよくよく振り返ってみると感覚の消費を行っていたのは香りを振りまいた直後ものの数秒間であり、次の瞬間に僕の鼻は驚くべき手のひら返し、つまり匂いに向けた一切の意識をシャットダウンするという離れ業をやってのけていた。勿論その後頻繁にフワッと香ってはああ良い匂い…とうっとりすることを繰り返すわけだが、これは必ずしも風向きによって香りが鼻元に漂ってくるから気付けるのではなく、意識の方こそが香り、その他、その他、香り、その他、その他…と絶え間なく漂い続けていることを示唆していた。香りは常にそこにあるにも関わらず意識がそれに向けた知覚を遮断していたのだ。

 

てっきり僕はお香を焚いている間常にその香りを楽しめているものだと思っていたがどうやらそのほどんどの時間は「自分はいい匂いに囲まれている」という「情報の消費」に向けられていたらしい。おそらくBGMにも同じことが言えるだろう。ふとした時に意識の向くお洒落なjazzは確かにそれ単体でお洒落であることに変わりないが、あくまで「ふとした時」のお楽しみなのだ。

そうすると本当の意味で僕らの五感を楽しませ続けるためには、意識の逃げ場がないほどに感覚の消費対象で自らを囲むことが一つの手段かもしれない。ねえ誰か一緒にteam lab行きませんか。