全裸でハットトリック

「ちゃんと服着てる!えらい!」

「コップでお水飲んでる!えらい!」

「一人で起きてこれた!えらい!」

 

我が家で飛び交う誉め言葉三段活用だ。飛び交うと言ってもこれらの称賛は決して交錯することはなく、常に嫁から自分へと一方的に放たれ続ける。長い訓練を通して磨き上げられた金言達は一糸乱れぬ隊列を成し、絶妙な連携の中で次々と繰り出される。彼女の祖先が長篠へ及ぶことに思いを馳せるとその様子は宛ら現代の鉄砲三段撃ちだ。一方で自分はと言えばその血筋を武田に遡ることができればまだ特筆に値する勝負が出来たであろうが、酒屋の息子に士農工商の第一位たる面影はない。弁慶の如くその矢を一身に受け、口から出るのはいつも「えへへ、えらいでしょ~」だ。嫁、愛してる。

 

近年いよいよ自分の中の裸族化が加速してきている。思えば事の発端は高校時代に求められるように思う。私服通学が許された出身校では部活ジャージが一大勢力として幅を利かせており、授業中の教室を後ろから眺めると「排球部」「蹴球部」「弓道部」等の文字を背負った後ろ姿が散見されるのが日常だった。水泳部に所属していた自分はこれを口実に夏になるとしばしば上裸で授業を受けた。服は煩わしく、周りの人は寛容だった。先生とは「服を着ろ!」「今着る!」「服を着ろ!」「今着る!」のラリーの末なんだかんだ延滞を認められ、クラスメイトはいつしかそれを当たり前の光景として受け流してくれた。今更ながらの感謝と謝罪の気持ちを遠く異国から送りたい。

 

時は流れ昨年6月、青年となった自分は世間と隔絶された環境で修行に励んでいた。来る日も来る日もホテルの一室で一人缶詰となり過ごす最中、ついに服を着る意義を見失った。暑いのに、どうして服を脱がないの?恥ずかしい思いをする訳でもないのに、どうして服を脱がないの?誰に害を及ぼす訳でもないのに、どうして服を脱がないの?普段は互いに対峙し合っている頭の中の天使と悪魔がこの時だけは劇場版ののび太ジャイアンよろしく強く手と手を取り合い、心を一にして脱げコールを吹っかけてきた。人生における最初で(現時点では)最後の全裸生活がここに成立した。自分の中の原始性を加速するための修行だったと言っても齟齬ない。

 

そして俗世へ舞い戻り現在、嫁の前では下着で留めているも尚鋭いお咎めが飛んでくる。自分の言い分は一貫して原始的。服は邪魔、服は暑い、だから脱ぎたい。一方で彼女の言い分が重厚な社会性を纏って襲い掛かる。見苦しい、締まらない、だらしない、人の下着なんて見たいものじゃない、ビーチじゃあるまいし汚いもの見た気持ちになる、本当にやめてほしい、アタシお父さんにも同じような不満が…(略)。つい今しがた2,3個の言い分を聞こうとヒアリングしたところ案の定地雷原に足を突っ込んでしまいマシンガンをお見舞いされた。今この瞬間もパンイチでキーボードを叩く自分は分が悪かった。お陰様で久しぶりに風呂上りに寝間着を纏わせて頂いた。

 

各々の言い分を踏まえ一つ明らかなのは自分の主張はマズローの下段に位置し、嫁は幾分かその上段に構えていることだ。サルとヒトの争いが我が家の基本構造だ。

「コップでお水飲んでる!えらい!」も関係は類似している。コップを出すことも面倒、注ぐことも面倒、洗うことも面倒、ペットボトルから直接飲めばワンストップや!はいイノベーション!と大胆に2Lペットボトルを傾ける自分に、嫁からは容赦ない叱責が迸る。一度口付けたらバイキンがハンショク!と言われるので口をつけないように遠隔から口内に注ぐと、これが同時に嫁に油を注ぐことにもなる。コップという文明の利器を放棄する自分と、それをみっともなく目も当てられない光景と断ずる嫁。最近はキッチンでこっそりこれをやると寝室から「コップ!」という声だけが飛んで来るようになった。1984年から遅れること34年、ワタナベ家にビッグブラザーが降臨した。お陰様で我が家のサルはコップを使うヒトへと進化しつつある。

 

「直感的にキモいからやめてほしい」という主張は一匹のサルとして素直に尊重できる。しかし「だらしがない」「みっともない」という感覚は立ち止まって考えてみたい。

そもそも服とは何だ。体温を調節したり、皮膚を守ったりするために発明されたという経緯が起こりにあるはずだ。そもそもコップとは何だ。貴重な水分を効率的に蓄え、運び、摂取するために発明されたものであるはずだ。せっかく先人たちが開拓したそれら文明の恩恵にあずからないことが、彼女の主張ではだらしがなく、みっともないことのようだ。しかし当初あったはずの原始的意義が薄れた現代において、服・コップが担う役割とは何だ。

公衆の秩序を守るため、異性を引き付けるため、アイデンティティの確立のため、服の役割は様々に想起される。が果たしてそれらはたった一人自宅に籠る環境下でどこまで通用するだろうか。多人数に分配するため、安全に口内まで運ぶため、食卓を装飾するため、コップの役割は様々に想起される。が果たしてそれらは着飾る必要のない一人のペットボトル使いの前でどこまで通用するだろうか。

 

「見た目・所作としての美しさ」は言語化が極めて難しいが、しかし感覚的な納得感は強く自覚できるものだと先日デザイナーとの会話を通して痛感した。かくいう自分もここまでスタンスを取ってブースカ言ってみたものの、いざ自分の家族が自分と同じ行動を取れば嫁と同様の立場を取るのだろう。棚上げ上手なさまは想像に難くない。結局一人称としての心地よさと第三者から見た気持ちよさは同じ現象一つ取り上げても話が変わる。長くなりそうだからこの話は別日に譲ろう。

 

今朝は残念ながら3つ目の誉め言葉を頂くことができず「ごはんだよ!」という声で起きた。半分寝ぼけたままキッチンへ向かい「パンだけ自分で出して!」という声に導かれるまま目の前にあったパン塊から適量を千切ってその場でモシャモシャ食べだした僕に「パン切り包丁使って!お皿出して!座って食べて!」と見事な三段攻撃が飛んできた。試合開始1分でのハットトリックは目を見張る活躍だ。次神戸から声が掛かるのはうちの嫁かもしれない。こうしてワタナベ家のイニエスタは日々僕をヒトの方へと導いてくれる。