自撮ラー アヴドゥル

先日飛行機に搭乗した際、アラブ人のおっさんとの出会いがあった。出会いと言っても互いに交友を深めた訳でもなければ言葉を交わした訳でもない。あちらはこちらのことを認識すらしておらず、ただ自分が一方的かつ強烈におっさんを観察させてもらうばかりだった。その彫りの深さ、ゴツめの身体、強靭な癖毛、そして何よりもまっすぐ一途な性格に敬意を表し、以降おっさんのことをアヴドゥルと呼ばせて頂くことにする。

 

アヴドゥルとの出会いは突然で、特異的だった。格安航空会社のコンパクトな機体の中、人をかき分けかき分け自分のシートまで辿り着くと、アヴドゥルは既にそこにいた。最初は彼の存在に気付くこともなく、何の気なしに座席に腰を下ろした。出会いはその直後、ふと前に視線を移した瞬間だった。アヴドゥルの顔面が突如として目に飛び込んできたのだ。正確にはアヴドゥルのリアルフェイスと対面した訳ではなく、スマホ画面に映るアヴドゥルの顔がちょうど座席の隙間から垣間見えたのだった。一列前、一席右側に座る彼は前方に掲げるようにしてスマホを握り、その画面は自分の座る場所からドンピシャで丸見えだった。5.5インチのアンドロイドにはデカデカと本人の顔面が映り込み、それは何を隠そう彼が自撮りの真っ最中であるということを示唆していた。

 

この地球上には、一定数の「自撮り大好きマン」が存在する。若い女性を中心とした巨大勢力は明白な一グループとしてさておき、自分の知る限り存在するもう一つのセグメントに注目したい。そのセグメントに半ば無理やり仮称を与えるならば「顔の濃いおっさんグループ」だ。自分の知る限り中東人と、インド・ネパール人を中心とした30代濃厚顔に多く散見される。地域的・年齢的特徴を抽出するにはまだまだ手元のサンプル数不足を感じるが、今の所彼らは総じて顔が濃く、かつ自らがその顔面をこよなく愛しんでいるように見える。つい先日も中東人の運転するタクシーに乗り合わせたが、信号待ち中にドライバーが熱心にスマホをいじっているので気になって後ろから覗き込むと、Facebookに投稿した自らの顔面写真とそこに寄せられたコメントを何度も往来しているのだった。

何を隠そう今回のアヴドゥルもこのセグメントに属することは見て明らかだった。

 

誰よりも早く搭乗に成功したアヴドゥルは早速スマホを取り出し、猛烈な勢いて自らの顔面をストレージに蓄え続けていた。ただの自撮りであればわざわざこうしてブログで言及するに至らなかったであろうが、彼はいくつかの点で圧倒的に僕の注目を掴み取った。

まず一つに量。自分が座席に着いた時、既にアヴドゥルは彼のゴールデンタイムに突入した後だったが、それから彼の独壇場はなんとシートベルトサインが消えるまで続いた。これがどれ程の長さかご想像頂けるだろうか。我先に機体へと乗り込み、シートに身を預け颯爽と自撮りを始めるアヴドゥル。機内が次々と搭乗者で満たされる中、一心不乱に自撮りを続けるアヴドゥル。救命胴衣の使用方法レクチャーが行われる中、脇目も逸らさず自撮りに集中するアヴドゥル。飛行機離陸時の衝撃を物ともせずシャッターを押し続けるアヴドゥル。みるみる遠ざかる地上の景色に機内が沸く中、外の光景に一瞥もくれない窓際のアヴドゥル。彼がカメラ撮影アプリを閉じ写真アルバムアプリを開いたのはようやく機体が安定してからのことだった。枚数にして200超、時間にしておよそ40分、アヴドゥルはシャッターを押し続けた。自撮ラーを称する某友の「自撮りは枚数ではなくて時間で区切る」という印象的な台詞がここで蘇った。際限なく撮り続ける彼にそもそも区切りという概念は見出せなかったが、少なくとも自分が撮った枚数を気にかける様子は一切匂わせなかった。その熱量と言ったら紛れもないマジシャンズレッドの使い手だった。

 

彼を印象付けた要因の2つめが「トライアンドエラーの不在」だった。仮にも、最高に見栄えの良い自分を記録しておくために40分の時間をかけて200枚の写真を積み上げるとしよう。誰もが、そこには何らかの試行錯誤が発生するはずだと推測できるのではなかろうか。カメラの角度、顔の角度、光の当て方、表情の作り方、その他様々なパラメーターの存在は、ちょっと想像力を働かせれば容易に察しがつくはずだ。このことを考えれば自撮りには限られた時間の中で様々な可能性の組み合わせを試しては確認し、少しずつ正解に近付いていくという学習過程そのものが一つの醍醐味としてあるのではないかと推し測れる。しかし残念ながらアヴドゥルの自撮りにはこの要素が欠落していたと断じざるを得ない。アヴドゥルは全く同じ角度、全く同じ表情でひたすらシャッターを押し続けた。10枚20枚と写真群が溜まったらしばらくそのコピー達を確認し、再び同じ角度・表情で一心不乱にシャッターを押す。結局アヴドゥルがカメラに納めた作品のうち、カメラの角度にして3アングル、被写体の変化にしてサングラス有・無の2バラエティが多様性に貢献したばかりで、側から見ていると似たり寄ったりの濃い顔がただストレージを逼迫し続けていた。アルバムに髭面がズラリと並ぶ様はさながら中東発のアンディ・ウォーホルの誕生を思わせる光景だった。

 

人の表情の機微は繊細なものであって、きっと彼なりにキメ顔を探していたのだろうと思われるかもしれない。そんな貴方に3点目の注目事項をお伝えしておきたい。彼が納めた写真の内約8割が巨大なサングラスをかけた状態で撮られていた。また加えてアヴドゥルの顔面はもみ上げから口周りにかけて立派なヒゲで覆われていた。つまり全体の8割の写真において彼の顔面はおよそ1部分の肌色を残してほとんどが何らかの黒色で覆われており、表情の改変余地は限りなくゼロに近かったのだ。挙げ句の果てに撮れども撮れども口を真一文字に結んだ無愛想面ばかりで、オーディエンスのこちらとしてはMen in Blackのオーディション用写真でもない限り何を原動力としてその努力が成立しているのか想像に困難を極める光景だった。40枚に1回ぐらい頭を撫で付けるものの中東人の強靭な天パが言うことを聞くはずもなく、無情にもマトリックスエージェント・スミスの様な瓜二つの分身をスマホ内で量産し続けていた。

 

人の姿を写真として記録する行為には静的と動的の2タイプがあるように思う。静的な写真は家族写真や自撮りに代表される様に「その時の状態」の記録を目的とし、必然人物に焦点が当たる。一方でどこへ行って、誰と何をしたという類の「行為」を記録する動的な写真もある。こちらは風景や身体の動きも意味の一翼を成し、当人はその要素の一部となる。先日ある寺院の前でニューヨークから来たという老夫婦に写真を頼まれた。お二人と寺院とが共存する角度を探しているとご婦人に「いいのよ大事なのは私たちだから。私たちさえ写ってれば問題ないわ。」と言われ驚いた。動的写真が求めれれるはずの場面で、静的写真で良いと言われた。自分は動的写真を好む傾向があるらしく、逆に静的写真は被写体としても苦手だ。昨日は妻から「普段はよく笑うのにカメラ向けられると顔が不自然になる」との指摘を受け、なるほど手元の写真を見返すと確かに硬い表情が多い。

今度アヴドゥルに会った暁には、被写体としての心構えを教えてもらわねば