僕らを取り巻く倍音

純白の洋食器。

艶やかな丸みに包み込まれたようなシルエットの中、滑らかなエンボスで設われたローズの淵には、見る角度によって可愛らしくコロコロと笑いかけるような光が踊る。純真無垢な白さの上に天使が降り立ったかのような温かな輝きは、気高くもどこか微笑ましい両義性を孕み、今も昔も世界中の人々を魅了し続ける。

 

シルバーに煌めくカトラリー。

優雅に伸びる強靭でしなやかな曲線美は、見るものをして思わず嘆息を漏らしめる。手のひらに自然と馴染む繊細さを備えながらも、一度その光沢に目を奪われると幾重にも潜む奥行きと重厚感に吸い込まれそうになる。誰もが頷く純銀の輝きは、時代を超えて人々の憧れとして存在し続けている。

 

なんと贅沢にもその両者を食卓に迎えよう。そして、味噌汁を飲もう。

全ッ然美味しくないの。気高ささんと微笑ましささんが2人揃って「ほげー」とひっくり返ってしまうぐらい台無しなの。舞台に上った人たちが総じて足を引っ張り合っちゃうの。吉本新喜劇のエンディング直前並みのドタバタオンステージなの。交通整理が必要なので一人ずつ事情聴取します。まず食器の言い分を聞こう。

「えーだって私せっかく白いのになんかすげえ濁らせてくんじゃんアイツ。黒魔術かってぐらい禍々しいうねり見せてるし。アンタもなんで私のこと持ち上げる?あり得ないんだけど。直接チューとかマジあり得ないんだけど。」

 

次にスプーン&フォーク。

「具の奴ら掬われる気ないでしょ。ワカメとか何様なの?ひらひらするばっかで全然捕まる気配ないじゃん。挙句の果てにスープ無くなったら底でへばり付いて離れないし。ナメてんの?食品としての自覚あんの?」

 

最後に味噌汁。

「エンボスって何?」

 

エンボスというのは板金や紙などに文字や絵柄などを浮き彫りにする加工のことで、洋食器に模られた花草の凸凹模様を作る技法もこう呼ぶらしい。僕もググったよ味噌汁君。

 

今の住まいはfull furnishedというやつで、要は家具付きの家だ。前の住人の遺留品もそこら中に潜んでいるため、家具以外にも食器や洗剤等一通り揃っている。着るものさえ持ってこれば、生活を始められる環境だ。よって日本出国の際、細心の注意を払ってスーツケースの中身を吟味した。26年間培ってきた経験則と計算力をフルに活用し、向こう暫くの生活の安定が保障される物資を割り出した。サイン・コサイン・タンジェント。AIが「すいませんけどシンギュラリティはもうちょっと先送りにしてくれませんか」とつい漏らしてしまうほどの切れ味を見せつけてやった。微分積分・いい気分。結果、箸と茶碗とお椀を忘れた。証明完了。

 

母「どう? 一番 ちょっとは慣れた 二番 随分と慣れた」

私「三番 初めから違和感がない」

(原文ママ)

 

というやりとりをする程度には現地生活に軟着陸したつもりでいたが、母さんごめん嘘ついた。まだ一個車輪出てなかった。箸茶碗お椀という一番大事なピースが欠けてた。

 

流石のfull furnished でも箸はない。純ジャパの自分からすると有象無象の洗剤は要らないから箸を一膳置いてほしかった。窓用洗剤/床用洗剤/食器用洗剤/グラス用洗剤/食洗器用洗剤/食洗器を洗浄する洗剤/カトラリー用洗剤/シンク用洗剤/コンロ用洗剤/風呂用洗剤/トイレ用洗剤/パイプ用洗剤/壁用洗剤/タイル用洗剤/木目用洗剤。今夜は洗剤パーティーですか。バブルラン@ワタナベ家の開催ですか。「地球上にある洗剤全部買ってみた」動画でも撮ってたんですか。清潔感も結構だが手頃な細身の棒を2本ください贅沢は言いませんので。

 

こちとら息巻いて袋一杯の米とサトウのごはん20食分と味噌600gとインスタント味噌汁20食分と数多大勢のふりかけ持って来ている。沢山の衣類を置き去りにしてなけなしの食糧持ち込んでいる。ここでお蔵入りは食糧たちに面目が立たない。

米はいいだろう。洋食屋に来たと思えばいい。サイゼリヤに来たと思えばいい。洋食器とフォークで容易に食べられる。しかし味噌汁はどうする。未だかつてスープ皿とスプーンフォークで味噌汁を振舞う光景なんて目にしたことがない。ドリンクバーのスープ鍋に味噌汁を入れてるサイゼリアなんて出会った試しがない。日本食にとって洋食器は立ち入り禁止の魔境だ。ごはん、お前すごいな。

 

とは言いながら手元にある液体を保持しておける容器はスープ皿のみ。それを口に運ぶことのできる道具はスプーンフォークのみ。使う他あるまい。味が変わるわけでもないしといただきます。味が変わるから驚きだ。

 

同じワインでも、大ぶりの立派なグラスで飲むと美味しさは一段と増すと言う。恐らく空気の触れ方なり唇に触れるガラスの薄さなり、幾つかの機能的要因があるのだろう。味噌汁も同様に、漆に下唇を触れさせながら幾許かの空気と一緒に啜ることが美味しさに繋がることもあろう。それを「美味しさ」と表現するかは微妙だが、少なくとも日本人の抱く「味噌汁像」はそういった触覚的・嗅覚的刺激も相まった状態で形成されているのだろう。更にはそれ以前に、視覚情報から経験はスタートしているのだろう。素朴な木目、艶やかな漆、その奥に除く小さな水面から立ち上る湯気、これを目にした瞬間「美味しい」は既に始まっているのだ。思えばあさげの汗だくCM「フーッフーッ…ズルズル…ッアー…フーッフーッ…ズルズル…ッアー…」はその全要素を備えた秀逸な作品だったのではないか。

 

如何せん純白の洋食器に収まる味噌汁を眺めていても全然「美味しい」が始まらない。一向に自分にとっての味噌汁経験が再生されることのないまま胃に収まってしまう。スタートでズッコケて、ゴールテープを切るまで七転八倒の汁生だ。おじいさん、クララが立たないよ。

 

学生時代バイトしていた高級寿司屋では魯山人をはじめとするThe職人の作品が使用されていたが、当時分からなかった価値を今なら想像できる気がする。微々たる「○○像」を経験として蓄積することで、初めてその価値を認めるに至るプロセスは貴賎無く一貫した原理だろう。それっぽい人がそれっぽく焼けばよくねとか思って本当すいませんでした。

 

倍音」という音がある。歌を嗜んでいた時期、最初は全く聞こえない倍音を必死のトレーニングで聞き分けられるようになり、自らコントロールできるようになり、そして享受できる音楽の幅がぐんと広がった。習得するまでその存在に気付きもしない微々たる差異が、一度認知しまうと実はそいつが世界観を多分に牛耳ってることを知った。

音楽に限らず、当人の気付かぬ内に生活を豊かにせしめる「倍音」はきっと世界に溢れているのだろう。

 

昨日お椀と箸が日本から届いた。やっぱり味噌汁が旨い。