ハクトウワシ男爵

 

近所の銭湯に、初めて足を運んでみた。

そもそも自分の銭湯経験といえば大学時代、いわゆるスーパーウェイ銭湯ウェイ的な施設にウェイなノリで幾度か行ったばかりで、日常生活の一部として落ち着き払って臨む銭湯は今回が初めてのことだった。

 

中に入ると屋内は20人分ほどのシャワーと、ジャグジー、寝風呂、水風呂、サウナが用意されている。屋外には2種類の温泉が設置されており、絶妙にカッチョイイ名前があしらわれていたがそれは忘れてしまいそれぞれハゲに効く湯とインポに効く湯だった気がする。自宅から徒歩10分でこの充実具合は中々のものではないかと、銭湯初心者の何様発言を心中で轟かせつつ、一つ一つの湯を嗜んだ。将来ハゲかインポで悩んだ際の駆け込み寺が確保できたのは大きい。

 

20分、30分と何の気なしに湯に浸かっていると、銭湯初心者はあることに気付く。

湯に浸かっているその瞬間は、ただ無心に宙を眺め、ぼーっと半口を開いた鼻垂れ小僧をやっているばかりの自分が、体が火照り次の行き先を検討するフェーズになって突如、「自分ルールの確立」に思いを巡らし、「空気を読む」ことに注力し出すのだ。これを自覚してから周りを見回すと、自分だけでなく多くの人が意識/無意識的に「自分ルールの確立」と「空気を読む」ことを実践していることに気付いた。

 

「5分間、サウナで座り続けよう」「あの人が出たら、その後自分も出よう」「新たに3人入ってきたら、外の椅子に座ろう」

湯水に浸かるにせよ、熱気に身を晒すにせよ、多くの人が意識/無意識的に自分の次なるアクションのきっかけを外部要因に求める。そんな思惑が凝縮されている場所、それが銭湯の持つ顔だと気付いた。一人入ると程なくして一人出て行き、こちらで一人が動くとあちらでも一人が動く、といった具合にそこここで人間ピタゴラスイッチが生じていた。

 

外部要因の上に自分ルールを立脚することは、考えてみれば至極真っ当だ。「熱くなったら出よう」と言っても風呂の中は四六時中熱いし、「限界まで浸かろう」なんてストイックな目標を掲げてしまったら最後、「まだ限界じゃない…まだ行ける…限界はまだだ…まだだ…限界は…まだだ…限界は…アババ…」という自問自答の末の卒倒が待っている。きっかけを主観に求めても、明確なタイミングはやってこないのだ。

 

当然、中には猛者もいる。

 

露天風呂に浸かっていると、次の一歩で滑って転んでも驚きはしないほど足取りの覚束ない老人がヨロヨロとやってきた。その足取りとは裏腹に、股間には立派なモノがぶら下がっていた。もはや老人がソレをぶら下げているというより、ソレが老人を背負っている、と言った方が正確な事実描写かもしれない。石段を一段一段登って来るソレは、まるで断崖絶壁沿いに獲物目がけて飛翔する鷲の如し、という様相だった。老人をハクトウワシ男爵と呼ぶことにした。

 

男爵がゆるり、ゆるりと露天風呂へ近づく。見守る一同。ハクトウワシがぶらり、ぶらりと宙を舞う。見守る一同。ハクトウワシが水面に着水する。見守る一同。ハクトウワシが潜水する。息を呑む一同。一連の出来事は長い月日を要したようにも、一瞬の出来事のようにも思えた。今や視界の外へと消えたハクトウワシは夢か現か、判断し難かった。もしかしたらただのまっくろくろすけだったかもしれない。

 

今しがたの光景が自然と反芻されつつ、幾許かの時を過ごす。ハクトウワシ男爵の到来以降、まだ露天風呂のメンバーチェンジはない。混乱と落ち着きとが交錯している最中、突如男爵が立ち上がる。再び現れるハクトウワシまっくろくろすけじゃなかった立派なワシだった。大空へ飛び立つハクトウワシ、ゆっくりと旋回するハクトウワシ、石段を滑空して去るハクトウワシ。尊敬の念で見送るオーディエンス。股越しに揺れるハクトウワシは今や幻のポケモン、ホウオウとなった。

 

ハクトウワシ男爵の自分ルールは外部要因には見出せなかった。男爵が風呂に浸かる間、人の動きも、時を知らせるツールもなく、そこには規則的に流れ落ちる湯水があるばかりだった。諸行は無常だった。

しかし突如として、男爵は立ち上がり、ハクトウワシは飛び立った。巨大な鎌首をもだけ、両翼を広げ、威風堂々とヨボヨボの尻が遠ざかった。

 

男爵の去り際を見るや否や、多くの人が露天風呂から出る素振りを見せた。ハクトウワシの襲来と出立というこれ以上ないきっかけに、一同に手すりを握る。しかし互いにタイミングを同じにし、「あっ//」と手を引っ込める人いくらか。空気の読みあいに勝利した一人がザバーっと露天風呂を後にする。残りの者はみな、甘んじて座し次の契機を待つ。

 

ハクトウワシ男爵とその他の人の違いは、何か。

 

男爵は、他人には悟られない自分ルールで動いていた。敢えてルールと呼ぶまでもない、本能に従って動いていた。それが「熱い」なのか「もう満足」なのか「おしっこしたい」なのかは分からないが、とにかくそこには自律した、一頭のハクトウワシがいるばかりだった。加えて当然、「空気を読む」類の社会的営みなどなかった。

 

他方で自分含め周囲。外的要因に身を委ねることでしか動き出すことのできない庶民達。ハクトウワシ男爵という大いなる契機に振り回される凡夫共。今キテる!と言って220万円のビットコインに突っ込んじゃう貧小。

外部要因に契機を求めれば、大きなイベントによって多数が動き出すのは必然。しかし包み隠さずスズメやハトを突き合わせる銭湯では、見知らぬ者同士一斉に動くのも恥ずかしい。空気を読む必要性がここに生じる。

 

 

何も風呂に限った話ではない。日常の微細な変化を敏感に嗅ぎ取り、即次のアクションに繋げれる人もいれば、分かっていつつも動けない人もいる。仮にアクションを取り続けることが是なのだとすれば、まずは行動に移しやすい大きな契機から自分ルールを作り、徐々に契機の規模を小さくして自律性を増していけ、そういうことかい?ハクトウワシ男爵さんよ。ハクトウワシ男爵ってなんだよ誰がつけたそんなダサネーム。

 

 

そんなわけで、海外赴任という人生におけるハクトウワシが現れたので、みなもすなるブログをいふものを始めてみます。

言うてみんな自由に風呂出入りしてると思います。